2019年8月11日日曜日

収穫の働き手


その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
(ルカの福音書10章1節~2節)

Ⅰ.収穫の働き手は神の畑に目を向ける

この地上に神の国をもたらし、神の国を広げること、弟子を育て神の国の働きをゆだねることが、主イエスに託されていたミッションでした。主イエスは常に、父の心を求め、父の心に従って歩まれました。主イエスが、失われた人を捜して救う時に、神の国に招き入れる時に、神の国は広がって行ったのです。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)

人間が創造主である神との関係を失って以来、天の父の目はこの世界とそこに住む人間に向けられています。罪によって壊れたこの世界ではありますが、父の目には収穫の畑として写っているのです。そこに住む私たち人間を愛する子どもとして、ご自身の関係の中に取り戻したいと願っておられるからです。その父の願いを受け止めて、ひとり子イエス・キリストはこの地上に来てくださいました。私たちを取り戻すために。

主イエスは、常に父の思いを受け止め、父の目を通してこの世界をご覧になっています。主は、収穫の働き手である私たちにも、私たちの住むこの世界とそこに住む人々に関心を向け、そこでいっしょに失われた人を捜してほしいと願っておられるのです。私たちは収穫の畑に目をむけているでしょうか?

Ⅱ.収穫の働き手は神の可能性に目を向ける

救い主の友となったザアカイを通してエリコの町の多くの罪人が救われ、たましいの渇きが癒されたサマリヤの女を通し彼女の町の多くの人々が救われ、悪霊から解放されたゲラサの男によってデカポリス全域に福音が伝えられました。彼らはみな、主イエスによって罪赦され神の国の市民となった人々です。このような人々によって神の国は広がって行ったのです。

主イエスは、人々の罪の深さや、弱さ、彼らのおかれていた絶望的な状況を充分ご存じでした。しかしあえてそのような人々を探し出して選び、友となり弟子とされたのです。それはこの人々の中に隠されていた神の可能性をご存じだったからです。神の国に招き入れられ、神のものとされるならば、神はこのような人々を造り変え収穫の働き手として素晴らしい方法で用いられることをご存じだったのです。

主イエスは、弱さをもった人々の中にある神の可能性に目を向けておられます。主は、収穫の働き手である私たちにも、周囲の人々の中に隠された神の可能性に目を向けてほしいと願っておられます。私たちは人間の弱さや困難な状況に目を向けているでしょうか?それともそこに隠された神の可能性に目を向けているでしょうか?

Ⅲ.収穫の働き手は神の畑に時間を投資する

主イエスは、持てる物すべてを、またご自身のいのちを神の畑に投資されました。私たちにとって最も貴重なものは自分自身いのちです。イエス・キリストの救いを通して神の国の市民権を得た私たちは、自分のいのちを生きているのではなく、神に与えられた新しいいのちを生きています。聖書はこの神の畑に自分のいのちを投資することこそが最も見返りの大きな投資であることを教えています。私たちに与えられているこの人生と言う時間には限りがあります。しかし、それがどれほど貴重なものであるか、私たちは十分気づいていないかもしれません。

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
(マタイの福音書13章44節)

その人が何を大切にしているかは、その人が何に時間を費やしているかで知ることができます。私たちは神の畑に隠された宝のあることに気づいているでしょうか?その宝を見出し掘り起こして手に入れるために時間を投資しているでしょうか?

Ⅳ.収穫の働き手は他の働き手とともに働く

主イエスは、地上で過ごした限られた時間の中で、ユダヤ人に対して御国の福音を伝えました。そして、天に帰られる前に、この福音を全世界に伝えるようにと弟子たちにお命じになりました。神のご計画の中にあって、主イエスは弟子たちを収穫の働き手として育て、彼らに神の国の働きをゆだねる必要があったのです。

神の畑は、まず、私たちのこころの中に、私たちの家庭(夫婦関係や親子関係)の中に、次に、教会の中に見つけなければならないものだと思います。なぜならそこが私たちにとって一番大切な畑であり、神の可能性が隠されているところだからです。私たちが自分の賜物を見失い、家庭や教会という畑が放置されて荒れ果てているとしたら、とても残念なことです。しかし、私たちが神の協力者となるならば、この畑は豊かな収穫を約束する畑に変わるのです。そして自分の立っている畑から目を上げて周囲を見渡すならば、果てしなく地平線まで続く収穫の畑が広がっているのです。

私たち一人一人が働き手となり、家庭と教会の中から働き手が起こされ、さらに地域社会の中から働き手が起こされてくるならば、そして手をつないでともに収穫のために働くことができるならば、なんと幸いなことでしょう。私たちは、神の国のために手を取り合ってともに働く収穫の働き手になろうとしているでしょうか?