2019年7月14日日曜日

あなたがたは力を受けます


しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」   
(使徒の働き1章8節)
 
教会が生まれたのは熱心に祈っていた120人の弟子たちの上に聖霊が注がれた時でした。主イエスが昇天される前に「あなたがたは力を受け、わたしの証人となる。」と語られた約束の成就の瞬間でもありました。今日は使徒の働きの中から聖霊の力についていっしょに分かち合いたいと思います。   
   
聖霊の力を、宣教の働きにともなうしるしと不思議(いやしなどの超自然的な働き)だけに限定して考えるのは、あるいはそこだけに強調点をおいて考えるのはバランスを欠いています。使徒の働きの2章からエルサレムに生まれた最初の教会(聖霊によって生まれ、聖霊によって建て上げられた教会)の特徴に目を向けそこから「聖霊の力」ついて考えたいと思います。
   
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒の働き2:42~47)

Ⅰ.聖霊は教会に「みことばに生きる力」を与える

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り・・・」-----主イエスの中心的な教えは、「神を愛し、人を愛し、キリストの弟子を作りなさい。」という命令に要約することができます。使徒たちの教えも同様です。エルサレムに生まれた最初の教会の弟子たちが使徒たちの教えを堅く守っていたというのは、彼らが、日々、神を愛し、人を愛し、生活を通してキリストを証し、周囲の人々を救いに導いていたということです。助け主である聖霊はキリストのみことばに従って生きようとする弟子たちに、その力を与えてくださる方です。聖霊は私たちが「従う」という選択をするときに、その決断(何よりも神を愛し、神が造られた人を赦し、愛し、仕え、キリストを証しするという決断)を実行する力を与えてくださるのです。従う決断する心に聖霊は力強く働いてくださるのです。

Ⅱ.聖霊は教会に「一つとなる力」を与える

「交わりをし、パンを裂き・・・」-----使徒の働きの2章に見られる教会はキリストにあって一つとされた教会、神の愛によって結ばれた神の家族でした。この教会に与えられた一致は、民主的な合意によって得られたものではありません。神の御心に従って生きる人々の間に自然に生まれた神の愛による一致です。聖霊は私たちが夫婦として、家族として、教会として一つとなる力を与えてくださいます。

一世紀の教会にとっても、現代の教会にとっても一番大きなチャレンジの一つが「一致すること」です。聖霊は一致を求める弟子たちの心に働いて、神の愛によって一つとしてくださるのです。聖霊が働かれるどうかは、私たちが心から一致を求めるかどうかの選択と決断にかかっています。

Ⅲ.聖霊は教会に「祈りの力」を与える

「祈りをしていた。」-----祈りとは神に語りかけることであると同時に、神の語りかけを聴くことでもあります。聖霊は祈りにおいても私たちを助けてくださる方です。父なる神が願っておられることと、私たちの願いが一致する時に、祈りは大きな力を発揮します。また主にある家族(教会)が神の願っておられることに同意して祈るならば、さらに大きな力が解き放たれます。聖霊は私たちの心の照準を神の御心にぴったりと重なるように導いてくださる方です。これも私たちの選択にかかっています。私たちは二つの異なる方向に同時に進むことはできません。からだは一つしかないからです。神の御心を選び取るためには、何か他のものを捨てなければならないかもしれません。しかし、そうする時に、私たちは神の最善を求め、知ることができるのです。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
(ローマ8:26)

Ⅳ.聖霊は教会に「神を知る力」を与える

「一同の心に恐れが生じ・・・」-----恐怖を連想させる「恐れ」ではなく、敬う意味を含んだ「畏れ」を使った方が適切ではないかと思います。ヘブル語では「恐れ」と「畏れ」を表わす語がありそれぞれ使い分けています。「心に恐れが生じ」とあるのは「怖くなった」と言うことではなく、神がどんなに聖い方であり、また恵み深い方であるかを知ったということです。主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われました。「父がどのように聖く、また赦しと愛に満ちた方か、私をみれば分かる。」と語られたのです。同様に私たちの交わりの中に聖霊がおられるなら、私たちは父を見る(知る)ことができるのです。

聖書が語る「知る」とは知的に理解することではありません。人格的に、体験的に「知る」ということです。創世記4章に「人(アダム)は、その妻エバを知った。」とありますが、それは夫婦として(人格的にも、肉体的にも)一つになったということです。聖霊は私たちに父なる神と人格的に交わる(知る)力を与えてくださるのです。

Ⅴ.聖霊は教会を通して力あるわざをなされる

「多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。・・・」-----主イエスがなされたのと同じように奇跡的に病気がいやされ、悪霊が追い出され、超自然的な啓示が与えられ、人間には説明のできない不思議なこと、奇跡が起こったということです。しかし、聖霊の力を奇跡だけに限定して、また強調して語るならば、偏った理解に陥り、他のもっと大切な部分を見落としてしまいます。聖書にこう書いてあったら皆さんはどう感じるでしょうか?

そして、彼らは使徒たちの教えをほどほどに守り、暇なときだけ交わりをし、パンを裂き、たまに祈っていた。当然、一同の心には何の変化もなかったのだが、それにもかかわらず、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはお互いに無関心で、気が向いたときに、わずかな物を共有にしていた。

Ⅵ.聖霊は教会に「分かち合う力」を与える

「・・・いっさいの物を共有にしていた。」-----この箇所に書かれているようなことはこの時代の限定的な出来事であったと思います。しかし、この箇所から、当時の教会が持てるものを惜しみなく分かち合っていた様子を伺うことができます。良く「教会にささげる」という言い方をしますが、ここで焦点が当てられているのは、すべての弟子たちが教会であって、その弟子たちが持てる物をお互いに分かち合っていた姿です。弟子たちが集めた献金を使徒たちの必要のために捧げていたとは書かれていません。(働き人を物質的な面で支えるという慣例はあっても、部分的なものであり、聖書はそこに主要な焦点を向けていません。)大切なのは、全ての弟子たちが与える者であり、すべての弟子たちが受け取る者であったという点です。共有するとはそういうことです。

Ⅶ.聖霊は教会に「礼拝者として生きる力」を与える

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」-----ここに登場する弟子たちは、日曜日だけ礼拝を守るため教会に集まっていたのではありません。「毎日礼拝していた」と言うよりは、いつも真の礼拝者として生きていたのです。これは主イエスがヨハネの福音書で語っておられることの成就として捉えることができます。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」    
(ヨハネ4:23~24)