2019年6月2日日曜日

成長させたのは神です


私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。"
(コリント人への手紙第一 3章6~9節)

参考:I planted, Apollos watered, but God gave the increase. (NKJ)

この手紙は、パウロが、さまざまな問題(分裂、不道徳、誤った教えなど)に苦しむコリントの教会に、「信仰によって一致するように」「キリストに立ち返るように」と書き送った手紙です。コリントの教会はパウロが開拓した教会の一つでした。

今日は、コリントの教会が抱えていた問題にではなく、パウロに与えられた植える者の働き、アポロに与えられた水を注ぐ者の働き、そして成長させる神の働きを聖書がどう教えているか、そこにフォーカスをあてていっしょに考えたいと思います。植える者、水を注ぐ者、成長(増加)させる神という三者の関係があります。

Ⅰ.植える者

使徒であるパウロは教会開拓者でした。何十年も一つの地域に定住し同じ教会にとどまって牧師として信徒たちを育てるということはしませんでした。パウロは開拓した教会を自分の育てた弟子や同労者に託して、生涯教会開拓の働きを続けます。なぜならそれが彼の召しだったからです。

ある場所で自分が植えた種が芽を出すのを見届けると、他の同労者にその世話を託して他の場所に移動する。そこでまた荒れた土地を開墾して畑を作り、そこに種を植える。そしてまた移動する。ときどき自分の開墾した畑の様子を見て回る。それが終生パウロのライフスタイルでした。

◆M牧師(植える者)

私の信仰のルーツは二世代前に遡るとM先生にたどり着きます。先生は根っからの教会開拓者(植える者)でした。先生が生涯の牧会生活の中で三十回以上引っ越しをされたと証しされていたのを思い出します。ちょうどパウロのように一つの教会を建て上げると弟子たちにそこを任せて新たな場所に移住してそこでまた教会開拓を始めるというのが先生のライフスタイルでした。新しい家に引っ越して、その窓から見える新しい景色を見てわくわくしたそうです。一方でご主人の働きを支え続けた奥さんはさぞかし大変だったと思います。永井先生が植えた種からたくさんの教会が生まれ、その一つで私のクリスチャンとしての歩みが始まりました。今から43年も前の事です。先生から見れば、私は霊的な孫になるわけです。

Ⅱ.水を注ぐ者

アポロもまた巡回伝道者でしたが、「水を注いだ」という記述から、パウロの開拓したコリントの教会に派遣された後、ある期間そこにとどまり牧者的、教師的な働きをしたと考えられます。

パウロとアポロの関係について聖書は詳細に記してはいませんが、パウロがアポロを信頼し同労者としてみなしていたことが伺えます。アポロと深く関わったのはパウロではなく彼が多くの時間をともにして働いたプリスキラとアクラという献身的な伝道者夫婦でした。パウロはこの二人に大きな信頼を寄せていました。

すでに伝道者として活動していたアポロの大きな可能性を見出し、また彼に何が不足しているかに気付いたこの夫婦はメンターとなってアポロを教え励まし育てます。つまりアポロの芽を出した種(召し)に水を注いだのです。アポロに関する記述を見ると彼が高度の学問を身につけた人であったことは容易に想像がつきます。そのアポロが一介の天幕職人夫婦のもとに身を寄せて、彼らから教えを受けたことが使徒の働きに記されていますが、そこから彼の謙虚な人柄を読み取ることができます。

やがてアポロは宣教師として送り出され、パウロが開拓したコリントの教会に赴任し、ある期間、そこで牧師として信徒たちを教え励まし育てます。アポロはパウロの植えた教会に水を注ぐ者となったのです。

◆小林繁樹牧師(水を注ぐ者)

「水を注ぐ」とはそのまま「弟子作り」であると言えます。5年前に昇天された私の古い友人小林繁樹先生は「水を注ぐ」ことにおいてその達人でした。長年ハワイの日本人教会で牧会された後、65歳で職を退き、神様の召しに答え、それ以来毎年サハリンを訪問し20年に渡って多くの弟子を育て、教会開拓を続けられました。サハリンという畑に福音の種を植え、そこから育った教会に水を注ぎ続けたのです。旧ソ連崩壊後の混乱の中で小林先生の働きを通して多くの若者たちが洗礼を受けてキリストの弟子となり、後にそこから60以上の教会が生まれました。小林先生は亡くなる数か月前までサハリンを訪問されていました。サハリンの多く牧師たちが今でも小林先生を自分たちの霊的なお父さんとして尊敬しています。私自身も先生から水を注がれた一人ですが、小林先生との交流を通して神様の召しに応えることの意味について教えられました。

Ⅲ.教会に与えられた二つの働き

私たちに当てはめて考えるなら、私たちは誰かによって植えられ、誰かによって水を注がれたので、教会として今ここに置かれていると言うことができます。すべての人がフルタイムの宣教師、あるいは牧師に召されているわけではありませんが、「すべての教会には『植える』という働き、『水を注ぐ』という働きが与えられている。」そう考える必要があると思うのです。

もし、この二つの働きを私たちが見失ってしまうならば、教会はいのちを失ってしまいます。この働きは少数の人だけにゆだねられた働きではなく、教会に属する私たちがみなで共有しなければならない働きであると思います。

◆市民農園での経験(教会という神の畑)

子どもたちがまだ小さかった時、自宅から歩いて10分ほど離れたところにある市民農園の土地を借りて野菜を育てたことがありました。土地と言っても二坪(畳4枚分)くらいの広さです。そこにナス、トマト、カボチャなど野菜の種や苗を植えました。最初は楽しくて子供たちを連れて毎日のように水やりや草むしりをしに畑を訪れていたのですが、そのうちだんだんと足が遠のくようになりました。どれほどたったでしょうか。何週間もほったらかしにした畑がさすがに気になって、恐る恐る見に行くと、一か所だけ子どもの背丈ほどもある草の生い茂った場所があるのです。ジャングルと化した我らの畑でした。もはやカオス状態。周りはキレイに実を実らせた野菜が整然と並んでいるので余計に目立ちます。近づいて見ると、なんとそんな状態になった畑に、不揃いでしたが野菜が実っていました。荒れた畑の中でかぼちゃも大きくなっていましたが、つるが周囲の畑に侵入していました。ほんとうに周りの方たちにははた迷惑だったと思います。野菜の生命力には驚かされましたが、放置するとこんな有様になってしまうのですね。

コリントの教会の様子を読んでいると雑草の生い茂った私たちの畑を思い出します。放っておいても野菜は育つと言っているのではありません。(教会と言う畑を考えた時に、管理しすぎる/お世話しすぎるのも考えものだと思いますが、)種が植えられた畑には水が注がれなければならないし、手入れがなされなければなりません。秩序を失い、分裂に苦しみ、誤った教えが入り込んで混乱していたコリントの教会ではありましたが、神のいのちが失われていたわけではなかったのです。種を植えることも、水を注ぎ手入れすることも大切です。でもいのちを生み出し、それを維持し、成長させることのできる方は神様しかおられません。

Ⅳ.成長させる神

聖書の原語ギリシャ語の時制では、「植えた」、「水を注いだ」は短い時間で完了した働きとして書かれ、「成長させる」は、継続的な働きとして書かれています。つまりパウロは、(神が始め、神が続け、神が完成しようとしている)神の働きを、自分や同労者アポロは、ある期間一時的に、また部分的にお手伝いをしたに過ぎない、そう言おうとしているのです。

もう一つ、「成長させた」は「増加させた」と訳すことも可能です。実際、「成長させたのは神です。」の部分を God gave the increase のように「増加させたのは神です。」と訳している英語訳聖書がいくつかあります。パウロは自分たちの働き「植える」「水を注ぐ」を農作業になぞらえて書いていますが、そこから考えると成長を個人的な成長としてとらえるだけでなく、主イエスのたとえでも強調されているように、数としての増加を含んでいると考える方が自然だと思います。

◆ミニチャーチ

一年ほど前から車で30分ほど離れた地域で主婦の方たちを中心としたミニチャーチを始めました。教会のメンバーのお一人Cさん(主婦の方)から「自宅を開放して伝道の働きのために使っていただければ・・・。」という申し出があったのがきっかけでした。たまたま近くに1年ほど前に救われた同年代の女性Mさんが住んでおられたので、Mさんを救いに導いたもう一人の女性HさんとホストとなってくださったこのCさん3人でミニチャーチを始めてはと提案したことが始まりでした。私たち夫婦も都合のつく時は参加していますが、徐々に自立させていく考えでいます。ミニチャーチがはじまってからこの三人の方たちはとても良い関係を築き、ともに祈り、積極的に伝道されるようになりました。最近ノンクリスチャンの友人がお一人参加された時に、救われて一年足らずのMさんが熱心にご自分の体験を証しされている姿が印象的でした。

植えられた種(このミニチャーチ)に水を注いでいるのは私たち夫婦だけではありません。ここに参加する三人の女性が人生を分かち合いながら、お互いに水を注ぎ合っているのです。

Ⅴ.神の同労者

「私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。」とありますが、初代教会のリーダーであった彼らもまた誰かによって植えられた種の実であり、水を注がれて育てられた存在でした。「水を注ぐ」は単に他の誰かに「福音の真理を教える」ということだけを意味しているわけではないと思います。「神の家族として、その人と時間を共有する。話しに耳を傾ける。ともに神のことばを分かち合う。その人の可能性(召しと賜物)に目をとめる。励まし手となる。ともに歩む。」そう多面的に捉えた方がより聖書のことばが伝えようとしている本質に近いような気がします。

クリスチャンである私たち(特に教会のリーダー)は神の畑である教会に種を植え、水を注ぐことを常に求められます。しかし、私たちもまた例外なく誰かに水を注いでもらわなければならない存在です。福音書を読む時に、主イエスが父なる神との交わりだけでなく、人間の友人たち(同労者)との交わりを求め、そこで慰めや励ましを受けておられた様子がうかがえます。それは私たちの救い主が人としてこの地上を歩まれたからです。そうであるならば弱さや欠点をもった私たちは、なおさらそのような関係を必要としているのではないでしょうか。私たちは神との関係、神の家族との関係、その両方の中で生かされており、養われ育てられているのです。

もし私たちが(私たちが始めた、私たちが続けている、私たちが完成しようとしている)私たちの働きをしているならば、神の同労者だと言うことができるでしょうか。そうであるならば、本当の意味での成長も増加も期待することはできないと思うのです。成長させる力、豊かな実を結ぶいのちはキリストのうちにしか見出すことはできないからです。

神の同労者とは、(神が始め、神が続け、神が完成しようとしている)神の働きに、植える者、水を注ぐ者として協力する人々のことです。「植える者、水を注ぐ者、成長させる神、この三つの関係が築かれる時に教会という畑は豊かに実を結ぶようになる。」、聖書はそう約束しています。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
(ヨハネの福音書15章5節