2019年6月16日日曜日

キリストの平和


今年のはじめに一人で祈る時間を持とうと思っていたのですが、大きなセミナーの準備などが続いて先延ばしになっていました。範子からの「行ける時に行ったほうがいいよ。」という促しもあって、月曜日から土曜日までクリスチャンのご夫妻が経営している車山高原の断食センターに行ってきました。とはいっても私は半断食のメニューを作っていただいて断食はしませんでした。一日二回、玄米と野菜メインのシンプルなメニューでしたが、オーガニックな食材で作られた料理はとても美味しかったです。 最初の二日間は雨が続いていましたが、木曜日、金曜日と天候に恵まれて自然豊かな高原で一人ハイキングをして祈りの時間を持ち、リフレッシュされました。                   

もちろん、皆さんのためにも、皆さんのご家庭のためにも、顔を思い浮かべながらお祈りしていました。痛みの中におられる方たち、病の中におられる方たちが懸命に戦っておられる姿を思って、どれも簡単に解決の与えられる問題ではありませんが、その中にあっても主からのなぐさめと励ましがあるようにと祈っていました。

◇信仰の戦いについて

今日はクリスチャンが置かれている信仰の(霊的な)戦いについて考えてみたいと思います。戦いの中に置かれている私たちにとって一番必要なものはなんでしょうか。必死に祈ることでしょうか?もちろん祈りは大切です。祈りなしにはこの戦いに勝利することはできません。では、神の敵である暗闇の力、霊的な存在と対決すことでしょうか?もちろんそのような場面もあるでしょう。でも、それよりも大切なことがあると聖書は教えています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」
(コロサイ3:15)

Ⅰ.キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい

霊的戦いについてこの聖句を引用するのは意外に思われるかもしれません。しかし、霊的な戦いにとって一番たいせつなのはキリストの平和の中にとどまること、また私たちのすべての領域(思い、ことば、態度、関係)をキリストの平和によって支配していただくことです。戦いの勝敗は、私たちが王であるキリストによってどれだけ支配されているか、それにかかっているといっても過言ではありません。キリストによる支配の度合いが問題なのです。

◇平和(平安)エイレーネー、シャロームの概念(以前のメッセージからの抜粋)

新約聖書ではギリシャ語のエイレーネーという言葉が「平安」「平和」と訳されていますが、旧約聖書の「シャローム」の持つ意味を背景に使われています。この「シャローム」はユダヤ人の間では、「平安がありますように」との意味で日常の挨拶に用いられている言葉ですが、平安以外にも、健やかであること、繁栄すること、安心できること、和解がもたらされること・・・と多様な意味を含んでいます。さらに「シャローム」は神がつくり与えるものであり、何も 損なわれていない100%満たされた状態をも表しています。

◇神のとの平和に生きる

大切な前提として神との平和はすでにキリストを通して信じる者に与えられています。キリストの平和が心を支配するとは、私たちと父である神との間になんのわだかまりも、妨げもないという状態です。そこにあるのは天の父と子とされた私たちとの親密な関係です。困難な状況の中でも神の良き姿を見ることのできる人は霊的に勝利しているのです。そこに敵の立ち入る余地はありません。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。                 (ローマ5:1)

私たちの思いとことば、態度、すべての領域をキリストの平和によって支配していただくなら、あとの戦いは楽になるはずです。実際、自分の所有権を放棄して聖霊に支配していただくことが、私たちにとって一番困難な戦いなのです。しかし、それさえできるなら、残りの部分は主が戦ってくださいます。それが聖書の教える霊的戦いの原則です。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。                    (ヤコブ4:7)

神に従うとは神に支配していただくということです。神は愛と恵みをもって私たちを治めてくださる方です。「神に従うこと」と「悪魔に立ち向かう」こととどちらがむずかしいでしょうか。ある意味、「神に従うこと」も戦いなのですが、こちらは私たちが無条件降伏しなければならない戦いです。神に無条件降伏した人が初めて悪魔に臆することなく立ち向かうことができるのです。不思議な言い方に聞こえるかもしれませんが、悪魔がもっとも恐れるのは神に全面降伏した人なのです。

◇神のことばに生きる

悪魔の最大の武器は偽りです。偽りによって、私たちが聞いた神のことばを歪め、私たちの心にある神の姿を歪めようとするのです。それが悪魔の常套手段です。「悪魔と戦って勝利しなければ平和は与えられない」というのも悪魔の偽りです。なぜなら私たちの王はすでに悪魔に勝利されているからです。そして、神の子とされたすべての者にすでに平和を与えてくださっているからです。問題は私たちがこの平和に支配されて生きているかどうかです。

「・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」               (ヨハネ16:33)

「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

ここでも、王であるキリストのご支配に自分を明け渡していくことが求められます。なぜなら、やろうと思えば、私たちはキリストに肝心な部分を明け渡さないまま祈ることもできるし、罪を離れないで「悪霊よ、出ていけ!」叫ぶこともできるからです。神に従わないで聖書を引用することさえ可能です。荒野でサタンが主イエスを誘惑したときのことを思い出してください。また、エデンの園においてはどうだったでしょうか。荒野では、サタンは聖書を引用して(歪曲して)イエスを試み、エデンの園では、蛇は神のことばを引用して(歪曲して)アダムとエバを誘惑しています。神のことばを知っているかどうかではなく、それに従っているかどうかが問われているのです。

Ⅱ.そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。

私たちは霊的な戦いをひとりで戦っているわけではありません。だれかがあなたのために祈っていると思います。また、あなたもだれかのために祈っていると思います。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」                           (マタイ18:20)

主イエスの名によって集まるとは、「主のご支配を認め、受け入れ、従う」ということです。神の主権を認めた人々が、心を合わせて同意して祈るところに、その関係を王であるキリストが治めてくださるのです。そこに神の国が生まれます。キリストの平和が支配するところに神の国があります。

私たちの戦いは神の国を広げる戦いです。戦いのもっとも激しいのは前線です。なぜならそこに二つの勢力のせめぎ合いがあるからです。皆さんの前線はどこにあるでしょうか?思いの中ですか?語ることばや態度でしょうか?あるいは身近な人々との関係にあるでしょうか?

問題の中で圧倒されてはいけません。神様は必ず祈りの仲間(家族や教会の仲間)を与えてくだいます。その人たちとともにイエスの名によって集まり祈る時に、神の国はそこにあり、確実に広がっているのです。

Ⅲ.感謝の心を持つ人になりなさい。

今回、一週間の祈りの時をもって、一番大変だったのはなんだと思いますか。思いを鎮めることです。いくつかの課題のために祈っていたのですが、どれも簡単に解決のつく問題ではありません。静まって祈ろうと思っても、ああでもないこうでもないと考え始めてしまうのです。考えることが別に悪いことではないし、決断するためには考える必要があります。ただ、考えることは下手をすると思い患いになってしまいます。

聖書は感謝の心を持つ人となりなさいと語りかけています。思い(こころ)を鎮めるかぎはそこにあると思います。注意深く目を向けてみると、困難に思えるその問題の中にも恵みがあることに気付かされます。まず、神の恵みがあることに気づかされ、自分自身が取り扱われていることに気づかされます。私たちは試練なしに忍耐を学ぶことはできません。複雑な状況の中で静まって祈ることなしには霊的な洞察を身につけることはできません。

最近大きな試練にあった友人家族のために、心配して祈っていました。そのことを彼らに伝えると、奥さんからこういう返事が来て驚きました。「ありがとうございます。私たちがこの試練を通して成長できるように祈ってください。」もちろん彼らは問題の解決も求めていましたが、試練を通して自分たちがよりキリストに似たものに変えられる機会であると考えていたのです。自分が同じ立場に置かれたらとてもそんな言葉は出てこないのではと思いました。

悲劇的なことや理不尽なことを無条件に、すべて受け入れなさいということではありません。もちろん受け入れてはならない問題、拒否したり対決したりしなければならない問題もたくさんあります。ただ、聖書はすべての状況の中で良き方である神に目を向けて感謝しなさいと教えています。

◇安息の中に生きる

霊的な戦いに勝利するために、キリストの平和によって支配していただくために、私たちが必ずしなければならないことがあります。それは、神を愛することと密接に関係しています。安息を持つことです。聖書の教える安息とはただ休むことではなく、今、やっていることを停止して、立ち止まり、心を王であるキリストに向け静まることです。忙しい私たちのライフスタイルに逆行するような命令です。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」        (出エジプト20:8) 

これは十戒の四番目であり、創造主である神との関係に直接関わる命令です。神との関係を第一にしてその関係の中で休みなさいという命令であって、「日曜日は教会の礼拝には必ず出席しなさい」ということではありません。(誤解していただきたくないのは、クリスチャンが神の家族としてともに集まることを聖書は強く勧めています。しかしそれは義務ではありません。)神との関係の中で休むときに私たちの傷ついた魂は癒やされ回復されます。

「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
(詩篇23:3)

「神との関係の中で十分に休み、たましいがいやされ、心から感謝し、神の家族とともにすべての恵みをよろこんで受け取る人は、信仰の(霊的)戦いに圧倒的に勝利する力が与えられる。」聖書はそう約束しています。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ8:37~39)