イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2019年6月16日日曜日

キリストの平和


今年のはじめに一人で祈る時間を持とうと思っていたのですが、大きなセミナーの準備などが続いて先延ばしになっていました。範子からの「行ける時に行ったほうがいいよ。」という促しもあって、月曜日から土曜日までクリスチャンのご夫妻が経営している車山高原の断食センターに行ってきました。とはいっても私は半断食のメニューを作っていただいて断食はしませんでした。一日二回、玄米と野菜メインのシンプルなメニューでしたが、オーガニックな食材で作られた料理はとても美味しかったです。 最初の二日間は雨が続いていましたが、木曜日、金曜日と天候に恵まれて自然豊かな高原で一人ハイキングをして祈りの時間を持ち、リフレッシュされました。                   

もちろん、皆さんのためにも、皆さんのご家庭のためにも、顔を思い浮かべながらお祈りしていました。痛みの中におられる方たち、病の中におられる方たちが懸命に戦っておられる姿を思って、どれも簡単に解決の与えられる問題ではありませんが、その中にあっても主からのなぐさめと励ましがあるようにと祈っていました。

◇信仰の戦いについて

今日はクリスチャンが置かれている信仰の(霊的な)戦いについて考えてみたいと思います。戦いの中に置かれている私たちにとって一番必要なものはなんでしょうか。必死に祈ることでしょうか?もちろん祈りは大切です。祈りなしにはこの戦いに勝利することはできません。では、神の敵である暗闇の力、霊的な存在と対決すことでしょうか?もちろんそのような場面もあるでしょう。でも、それよりも大切なことがあると聖書は教えています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」
(コロサイ3:15)

Ⅰ.キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい

霊的戦いについてこの聖句を引用するのは意外に思われるかもしれません。しかし、霊的な戦いにとって一番たいせつなのはキリストの平和の中にとどまること、また私たちのすべての領域(思い、ことば、態度、関係)をキリストの平和によって支配していただくことです。戦いの勝敗は、私たちが王であるキリストによってどれだけ支配されているか、それにかかっているといっても過言ではありません。キリストによる支配の度合いが問題なのです。

◇平和(平安)エイレーネー、シャロームの概念(以前のメッセージからの抜粋)

新約聖書ではギリシャ語のエイレーネーという言葉が「平安」「平和」と訳されていますが、旧約聖書の「シャローム」の持つ意味を背景に使われています。この「シャローム」はユダヤ人の間では、「平安がありますように」との意味で日常の挨拶に用いられている言葉ですが、平安以外にも、健やかであること、繁栄すること、安心できること、和解がもたらされること・・・と多様な意味を含んでいます。さらに「シャローム」は神がつくり与えるものであり、何も 損なわれていない100%満たされた状態をも表しています。

◇神のとの平和に生きる

大切な前提として神との平和はすでにキリストを通して信じる者に与えられています。キリストの平和が心を支配するとは、私たちと父である神との間になんのわだかまりも、妨げもないという状態です。そこにあるのは天の父と子とされた私たちとの親密な関係です。困難な状況の中でも神の良き姿を見ることのできる人は霊的に勝利しているのです。そこに敵の立ち入る余地はありません。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。                 (ローマ5:1)

私たちの思いとことば、態度、すべての領域をキリストの平和によって支配していただくなら、あとの戦いは楽になるはずです。実際、自分の所有権を放棄して聖霊に支配していただくことが、私たちにとって一番困難な戦いなのです。しかし、それさえできるなら、残りの部分は主が戦ってくださいます。それが聖書の教える霊的戦いの原則です。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。                    (ヤコブ4:7)

神に従うとは神に支配していただくということです。神は愛と恵みをもって私たちを治めてくださる方です。「神に従うこと」と「悪魔に立ち向かう」こととどちらがむずかしいでしょうか。ある意味、「神に従うこと」も戦いなのですが、こちらは私たちが無条件降伏しなければならない戦いです。神に無条件降伏した人が初めて悪魔に臆することなく立ち向かうことができるのです。不思議な言い方に聞こえるかもしれませんが、悪魔がもっとも恐れるのは神に全面降伏した人なのです。

◇神のことばに生きる

悪魔の最大の武器は偽りです。偽りによって、私たちが聞いた神のことばを歪め、私たちの心にある神の姿を歪めようとするのです。それが悪魔の常套手段です。「悪魔と戦って勝利しなければ平和は与えられない」というのも悪魔の偽りです。なぜなら私たちの王はすでに悪魔に勝利されているからです。そして、神の子とされたすべての者にすでに平和を与えてくださっているからです。問題は私たちがこの平和に支配されて生きているかどうかです。

「・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」               (ヨハネ16:33)

「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

ここでも、王であるキリストのご支配に自分を明け渡していくことが求められます。なぜなら、やろうと思えば、私たちはキリストに肝心な部分を明け渡さないまま祈ることもできるし、罪を離れないで「悪霊よ、出ていけ!」叫ぶこともできるからです。神に従わないで聖書を引用することさえ可能です。荒野でサタンが主イエスを誘惑したときのことを思い出してください。また、エデンの園においてはどうだったでしょうか。荒野では、サタンは聖書を引用して(歪曲して)イエスを試み、エデンの園では、蛇は神のことばを引用して(歪曲して)アダムとエバを誘惑しています。神のことばを知っているかどうかではなく、それに従っているかどうかが問われているのです。

Ⅱ.そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。

私たちは霊的な戦いをひとりで戦っているわけではありません。だれかがあなたのために祈っていると思います。また、あなたもだれかのために祈っていると思います。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」                           (マタイ18:20)

主イエスの名によって集まるとは、「主のご支配を認め、受け入れ、従う」ということです。神の主権を認めた人々が、心を合わせて同意して祈るところに、その関係を王であるキリストが治めてくださるのです。そこに神の国が生まれます。キリストの平和が支配するところに神の国があります。

私たちの戦いは神の国を広げる戦いです。戦いのもっとも激しいのは前線です。なぜならそこに二つの勢力のせめぎ合いがあるからです。皆さんの前線はどこにあるでしょうか?思いの中ですか?語ることばや態度でしょうか?あるいは身近な人々との関係にあるでしょうか?

問題の中で圧倒されてはいけません。神様は必ず祈りの仲間(家族や教会の仲間)を与えてくだいます。その人たちとともにイエスの名によって集まり祈る時に、神の国はそこにあり、確実に広がっているのです。

Ⅲ.感謝の心を持つ人になりなさい。

今回、一週間の祈りの時をもって、一番大変だったのはなんだと思いますか。思いを鎮めることです。いくつかの課題のために祈っていたのですが、どれも簡単に解決のつく問題ではありません。静まって祈ろうと思っても、ああでもないこうでもないと考え始めてしまうのです。考えることが別に悪いことではないし、決断するためには考える必要があります。ただ、考えることは下手をすると思い患いになってしまいます。

聖書は感謝の心を持つ人となりなさいと語りかけています。思い(こころ)を鎮めるかぎはそこにあると思います。注意深く目を向けてみると、困難に思えるその問題の中にも恵みがあることに気付かされます。まず、神の恵みがあることに気づかされ、自分自身が取り扱われていることに気づかされます。私たちは試練なしに忍耐を学ぶことはできません。複雑な状況の中で静まって祈ることなしには霊的な洞察を身につけることはできません。

最近大きな試練にあった友人家族のために、心配して祈っていました。そのことを彼らに伝えると、奥さんからこういう返事が来て驚きました。「ありがとうございます。私たちがこの試練を通して成長できるように祈ってください。」もちろん彼らは問題の解決も求めていましたが、試練を通して自分たちがよりキリストに似たものに変えられる機会であると考えていたのです。自分が同じ立場に置かれたらとてもそんな言葉は出てこないのではと思いました。

悲劇的なことや理不尽なことを無条件に、すべて受け入れなさいということではありません。もちろん受け入れてはならない問題、拒否したり対決したりしなければならない問題もたくさんあります。ただ、聖書はすべての状況の中で良き方である神に目を向けて感謝しなさいと教えています。

◇安息の中に生きる

霊的な戦いに勝利するために、キリストの平和によって支配していただくために、私たちが必ずしなければならないことがあります。それは、神を愛することと密接に関係しています。安息を持つことです。聖書の教える安息とはただ休むことではなく、今、やっていることを停止して、立ち止まり、心を王であるキリストに向け静まることです。忙しい私たちのライフスタイルに逆行するような命令です。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」        (出エジプト20:8) 

これは十戒の四番目であり、創造主である神との関係に直接関わる命令です。神との関係を第一にしてその関係の中で休みなさいという命令であって、「日曜日は教会の礼拝には必ず出席しなさい」ということではありません。(誤解していただきたくないのは、クリスチャンが神の家族としてともに集まることを聖書は強く勧めています。しかしそれは義務ではありません。)神との関係の中で休むときに私たちの傷ついた魂は癒やされ回復されます。

「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
(詩篇23:3)

「神との関係の中で十分に休み、たましいがいやされ、心から感謝し、神の家族とともにすべての恵みをよろこんで受け取る人は、信仰の(霊的)戦いに圧倒的に勝利する力が与えられる。」聖書はそう約束しています。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ8:37~39)

2019年6月9日日曜日

だれでもわたしについて来たいと思うなら


それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。                 
(マタイの福音書 16章 24〜27節 新改訳2017)

Ⅰ.ティーンチャレンジ

二泊三日で友人の木崎牧師が運営するティーンチャレンジを訪問しました。岡山市の中心部から、のどかな山里の景色を眺め車で30分ほど走った道路沿いの林の中に更生センターがあります。ここでは、さまざま依存症の問題を抱えた若者たちが、聖書の学びと農作業を中心とした回復プログラムを通して、新しい人生の出発地点に立つために一年間の学びと訓練の生活を送っています。

ティーンチャレンジのホームページにはこんな言葉があります。「麻薬やお酒を止めることに焦点を当てるのではなく、神と人のために生きることに集中する。やりがいのある仕事につき、愛する家族を守っているとき、人は依存症には戻れません。」

ティーンチャレンジは依存症の解決が聖書のことばに生き、神との親密な関係を築くことにあると考えています。依存症からの回復や社会復帰が彼らの考える最終的なゴールではありません。彼らが願っているのは、すべての人に福音を伝えることであり、そしてその福音を通して人々が造り変えられ神と人を愛する人生を生きるようになることです。確かに依存症を抱えた人々のためミニストリーではありますが、宣教と弟子作りがその働きの中心にあります。

Ⅱ.だれでもわたしについて来たいと思うなら・・・・わたしに従ってきなさい。

岡山に滞在中、何人かの若いティーンチャレンジのスタッフとお話しをする機会がありました。彼ら自身がかつて依存症に苦しみ人生に挫折した経験を持っています。ホームページで赤裸に証していますのでご覧になってください。卒業生の多くが自分たち同じ依存症で苦しむ人々の助けとなりたいという願いをもってこのミニストリーに関わっています。「わたしについて来たいか?」という主イエスの問いかけに「YES!」と応えた若者たちの姿がそこにあります。 http://www.teenchallengejapan.com/addiction.html

彼らの姿を見て、「自分はこの若者たちのように神様の招きに応え、神の働きのために人生をささげているだろうか?」と自問させられました。私たちの救い主は、恐怖で人を駆り立てることも、ご利益で人を誘うこともされません。なんの駆け引きもなくただ「わたしについて来たいか?」と問いかけておられるのです。その問いに「YES!」と答える人々に対して、主は「従って来なさい」と求められるのです。

Ⅲ.自分を捨て、自分の十字架を負って、

「自分を捨て、自分の十字架を負って・・・」とても厳しい投げかけです。キリストは私たちに「自分の人生の所有権を放棄して、わたしに明け渡しなさい」と求めておられるのです。

クリスチャンになるということは、もちろん罪赦され、神の子とされ、神の国の市民権を得、祝福の中を生きることを意味しています。しかし同時に、クリスチャンになって神の国に生きるとは、神の国の王であるキリストに自分の人生の所有権を明け渡して、しもべとして生きることを意味しています。

主イエスは、弟子たちに、「人生の所有権を握って自分のために生きるのか、それとも、それを放棄して自分を造られた方と他の人たちのために生きるのか」という選択を迫っているのです。

岡山で出会ったティーンチャレンジのスタッフにマユさんという二十代の若い女性がいました。両親の離婚から十代の時に不登校になり、非行に走り、アルコール依存症になり、リストカットと自殺未遂を繰り返す・・・そんな壮絶な人生からティーンチャレンジの在宅サポートで回復し、新しい人生を歩み始めた女性でした。マユさんは、同じような苦しみを抱えている女性のために何かをしたいと願いに駆り立てられて、岡山に移住し今ボランティアスタッフとしてティーンチャレンジの働きを助けています。

Ⅳ.キリストにある自由と喜び

自分の所有権をすすんで手放したいと思う人はだれもいないと思います。自由を失いたくないからです。しかし聖書は、自分の所有権を握りしめている人間が実は罪の奴隷であると教えています。

25節に、「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」とありますが、マタイの福音書では次のように書かれています。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイの福音書10章39節)

「人生の所有権を手放して、神に全面的に明け渡した時、はじめて私たちは本当の自由とそこにある喜びを手にすることができる。」聖書はそう教えています。岡山で出会った若者たちはその生きた証しです。

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネの福音書8章31節~32節)

2019年6月2日日曜日

成長させたのは神です


私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。"
(コリント人への手紙第一 3章6~9節)

参考:I planted, Apollos watered, but God gave the increase. (NKJ)

この手紙は、パウロが、さまざまな問題(分裂、不道徳、誤った教えなど)に苦しむコリントの教会に、「信仰によって一致するように」「キリストに立ち返るように」と書き送った手紙です。コリントの教会はパウロが開拓した教会の一つでした。

今日は、コリントの教会が抱えていた問題にではなく、パウロに与えられた植える者の働き、アポロに与えられた水を注ぐ者の働き、そして成長させる神の働きを聖書がどう教えているか、そこにフォーカスをあてていっしょに考えたいと思います。植える者、水を注ぐ者、成長(増加)させる神という三者の関係があります。

Ⅰ.植える者

使徒であるパウロは教会開拓者でした。何十年も一つの地域に定住し同じ教会にとどまって牧師として信徒たちを育てるということはしませんでした。パウロは開拓した教会を自分の育てた弟子や同労者に託して、生涯教会開拓の働きを続けます。なぜならそれが彼の召しだったからです。

ある場所で自分が植えた種が芽を出すのを見届けると、他の同労者にその世話を託して他の場所に移動する。そこでまた荒れた土地を開墾して畑を作り、そこに種を植える。そしてまた移動する。ときどき自分の開墾した畑の様子を見て回る。それが終生パウロのライフスタイルでした。

◆M牧師(植える者)

私の信仰のルーツは二世代前に遡るとM先生にたどり着きます。先生は根っからの教会開拓者(植える者)でした。先生が生涯の牧会生活の中で三十回以上引っ越しをされたと証しされていたのを思い出します。ちょうどパウロのように一つの教会を建て上げると弟子たちにそこを任せて新たな場所に移住してそこでまた教会開拓を始めるというのが先生のライフスタイルでした。新しい家に引っ越して、その窓から見える新しい景色を見てわくわくしたそうです。一方でご主人の働きを支え続けた奥さんはさぞかし大変だったと思います。永井先生が植えた種からたくさんの教会が生まれ、その一つで私のクリスチャンとしての歩みが始まりました。今から43年も前の事です。先生から見れば、私は霊的な孫になるわけです。

Ⅱ.水を注ぐ者

アポロもまた巡回伝道者でしたが、「水を注いだ」という記述から、パウロの開拓したコリントの教会に派遣された後、ある期間そこにとどまり牧者的、教師的な働きをしたと考えられます。

パウロとアポロの関係について聖書は詳細に記してはいませんが、パウロがアポロを信頼し同労者としてみなしていたことが伺えます。アポロと深く関わったのはパウロではなく彼が多くの時間をともにして働いたプリスキラとアクラという献身的な伝道者夫婦でした。パウロはこの二人に大きな信頼を寄せていました。

すでに伝道者として活動していたアポロの大きな可能性を見出し、また彼に何が不足しているかに気付いたこの夫婦はメンターとなってアポロを教え励まし育てます。つまりアポロの芽を出した種(召し)に水を注いだのです。アポロに関する記述を見ると彼が高度の学問を身につけた人であったことは容易に想像がつきます。そのアポロが一介の天幕職人夫婦のもとに身を寄せて、彼らから教えを受けたことが使徒の働きに記されていますが、そこから彼の謙虚な人柄を読み取ることができます。

やがてアポロは宣教師として送り出され、パウロが開拓したコリントの教会に赴任し、ある期間、そこで牧師として信徒たちを教え励まし育てます。アポロはパウロの植えた教会に水を注ぐ者となったのです。

◆小林繁樹牧師(水を注ぐ者)

「水を注ぐ」とはそのまま「弟子作り」であると言えます。5年前に昇天された私の古い友人小林繁樹先生は「水を注ぐ」ことにおいてその達人でした。長年ハワイの日本人教会で牧会された後、65歳で職を退き、神様の召しに答え、それ以来毎年サハリンを訪問し20年に渡って多くの弟子を育て、教会開拓を続けられました。サハリンという畑に福音の種を植え、そこから育った教会に水を注ぎ続けたのです。旧ソ連崩壊後の混乱の中で小林先生の働きを通して多くの若者たちが洗礼を受けてキリストの弟子となり、後にそこから60以上の教会が生まれました。小林先生は亡くなる数か月前までサハリンを訪問されていました。サハリンの多く牧師たちが今でも小林先生を自分たちの霊的なお父さんとして尊敬しています。私自身も先生から水を注がれた一人ですが、小林先生との交流を通して神様の召しに応えることの意味について教えられました。

Ⅲ.教会に与えられた二つの働き

私たちに当てはめて考えるなら、私たちは誰かによって植えられ、誰かによって水を注がれたので、教会として今ここに置かれていると言うことができます。すべての人がフルタイムの宣教師、あるいは牧師に召されているわけではありませんが、「すべての教会には『植える』という働き、『水を注ぐ』という働きが与えられている。」そう考える必要があると思うのです。

もし、この二つの働きを私たちが見失ってしまうならば、教会はいのちを失ってしまいます。この働きは少数の人だけにゆだねられた働きではなく、教会に属する私たちがみなで共有しなければならない働きであると思います。

◆市民農園での経験(教会という神の畑)

子どもたちがまだ小さかった時、自宅から歩いて10分ほど離れたところにある市民農園の土地を借りて野菜を育てたことがありました。土地と言っても二坪(畳4枚分)くらいの広さです。そこにナス、トマト、カボチャなど野菜の種や苗を植えました。最初は楽しくて子供たちを連れて毎日のように水やりや草むしりをしに畑を訪れていたのですが、そのうちだんだんと足が遠のくようになりました。どれほどたったでしょうか。何週間もほったらかしにした畑がさすがに気になって、恐る恐る見に行くと、一か所だけ子どもの背丈ほどもある草の生い茂った場所があるのです。ジャングルと化した我らの畑でした。もはやカオス状態。周りはキレイに実を実らせた野菜が整然と並んでいるので余計に目立ちます。近づいて見ると、なんとそんな状態になった畑に、不揃いでしたが野菜が実っていました。荒れた畑の中でかぼちゃも大きくなっていましたが、つるが周囲の畑に侵入していました。ほんとうに周りの方たちにははた迷惑だったと思います。野菜の生命力には驚かされましたが、放置するとこんな有様になってしまうのですね。

コリントの教会の様子を読んでいると雑草の生い茂った私たちの畑を思い出します。放っておいても野菜は育つと言っているのではありません。(教会と言う畑を考えた時に、管理しすぎる/お世話しすぎるのも考えものだと思いますが、)種が植えられた畑には水が注がれなければならないし、手入れがなされなければなりません。秩序を失い、分裂に苦しみ、誤った教えが入り込んで混乱していたコリントの教会ではありましたが、神のいのちが失われていたわけではなかったのです。種を植えることも、水を注ぎ手入れすることも大切です。でもいのちを生み出し、それを維持し、成長させることのできる方は神様しかおられません。

Ⅳ.成長させる神

聖書の原語ギリシャ語の時制では、「植えた」、「水を注いだ」は短い時間で完了した働きとして書かれ、「成長させる」は、継続的な働きとして書かれています。つまりパウロは、(神が始め、神が続け、神が完成しようとしている)神の働きを、自分や同労者アポロは、ある期間一時的に、また部分的にお手伝いをしたに過ぎない、そう言おうとしているのです。

もう一つ、「成長させた」は「増加させた」と訳すことも可能です。実際、「成長させたのは神です。」の部分を God gave the increase のように「増加させたのは神です。」と訳している英語訳聖書がいくつかあります。パウロは自分たちの働き「植える」「水を注ぐ」を農作業になぞらえて書いていますが、そこから考えると成長を個人的な成長としてとらえるだけでなく、主イエスのたとえでも強調されているように、数としての増加を含んでいると考える方が自然だと思います。

◆ミニチャーチ

一年ほど前から車で30分ほど離れた地域で主婦の方たちを中心としたミニチャーチを始めました。教会のメンバーのお一人Cさん(主婦の方)から「自宅を開放して伝道の働きのために使っていただければ・・・。」という申し出があったのがきっかけでした。たまたま近くに1年ほど前に救われた同年代の女性Mさんが住んでおられたので、Mさんを救いに導いたもう一人の女性HさんとホストとなってくださったこのCさん3人でミニチャーチを始めてはと提案したことが始まりでした。私たち夫婦も都合のつく時は参加していますが、徐々に自立させていく考えでいます。ミニチャーチがはじまってからこの三人の方たちはとても良い関係を築き、ともに祈り、積極的に伝道されるようになりました。最近ノンクリスチャンの友人がお一人参加された時に、救われて一年足らずのMさんが熱心にご自分の体験を証しされている姿が印象的でした。

植えられた種(このミニチャーチ)に水を注いでいるのは私たち夫婦だけではありません。ここに参加する三人の女性が人生を分かち合いながら、お互いに水を注ぎ合っているのです。

Ⅴ.神の同労者

「私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。」とありますが、初代教会のリーダーであった彼らもまた誰かによって植えられた種の実であり、水を注がれて育てられた存在でした。「水を注ぐ」は単に他の誰かに「福音の真理を教える」ということだけを意味しているわけではないと思います。「神の家族として、その人と時間を共有する。話しに耳を傾ける。ともに神のことばを分かち合う。その人の可能性(召しと賜物)に目をとめる。励まし手となる。ともに歩む。」そう多面的に捉えた方がより聖書のことばが伝えようとしている本質に近いような気がします。

クリスチャンである私たち(特に教会のリーダー)は神の畑である教会に種を植え、水を注ぐことを常に求められます。しかし、私たちもまた例外なく誰かに水を注いでもらわなければならない存在です。福音書を読む時に、主イエスが父なる神との交わりだけでなく、人間の友人たち(同労者)との交わりを求め、そこで慰めや励ましを受けておられた様子がうかがえます。それは私たちの救い主が人としてこの地上を歩まれたからです。そうであるならば弱さや欠点をもった私たちは、なおさらそのような関係を必要としているのではないでしょうか。私たちは神との関係、神の家族との関係、その両方の中で生かされており、養われ育てられているのです。

もし私たちが(私たちが始めた、私たちが続けている、私たちが完成しようとしている)私たちの働きをしているならば、神の同労者だと言うことができるでしょうか。そうであるならば、本当の意味での成長も増加も期待することはできないと思うのです。成長させる力、豊かな実を結ぶいのちはキリストのうちにしか見出すことはできないからです。

神の同労者とは、(神が始め、神が続け、神が完成しようとしている)神の働きに、植える者、水を注ぐ者として協力する人々のことです。「植える者、水を注ぐ者、成長させる神、この三つの関係が築かれる時に教会という畑は豊かに実を結ぶようになる。」、聖書はそう約束しています。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
(ヨハネの福音書15章5節