2019年5月12日日曜日

どうしても必要なこと


回に引き続いて「関係を築く」ことについていっしょに学んでいきたいと思います。皆さん忙しく生活されていると思いますが、一つ質問させてください。学生であるならば「何のために勉強されていますか?」仕事をしておられる方であるならば「何のために仕事をしておられますか?」主婦であるならば「何のために育児をし、家事をしておられますか?」「望んでいる職業にすすむため」「家族を支えるため」「子供たちにできるだけ良い教育を受けさせるため」いろいろな答えが返ってくると思います。例外なく自分自身と家族、子供たちの良い将来を望んで忙しく生きていることは確かだと思いますが、何か大切なものを見失っていないでしょうか?

クリスチャンである私たちはどうでしょうか?「何のために時間をささげて、ともに集まり、奉仕をし、伝道しているのでしょう?」現代に生きる私たちは、クリスチャンであろうがなかろうが、日々の必要に迫られて実に忙しく生きています。少し立ち止まって、忙しさの中で「何かをすることより大切なもの」を見失っていないか考えてみたいと思います。

さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」※別訳:取り上げられることはない。
(ルカの福音書10章38節~42節)

Ⅰ.奉仕を優先したマルタ

翻訳によってはマリヤが妹として訳されていますが、ギリシャ語からは、だれが年長であるかはわかりません。とりあえず、話を進めやすいように(新改訳聖書第三版に従って)マリヤを妹として読んで進めたいと思います。主イエスはベタニアに住むこの二人の姉妹、そしてここには登場しませんが兄弟のラザロと特に親しい関係にあったようです。この場面では、てきぱきと仕事をこなす働き者のマルタの落ち着かない様子が描かれています。敬愛する主イエスをできる限り持てなしたいと願うマルタの動機は決して間違ったものではありませんでした。むしろ良い動機で忙しく奉仕していたのです。一方、マリヤの方はてんてこ舞いの姉をよそに主イエスの話に夢中になって耳を傾けていました。皆さんがその場にいたらどう感じるでしょうか。もしラザロがいたら「話しを聞くのはマルタを手伝ってからにしなさい」と注意したと思います。

業を煮やしたマルタは、妹のマリヤにではなく主イエスに不満をぶつけます。「私だけ忙しくしていてなんとも思わないのですか?妹に手伝うように言ってください!」ところが、主イエスの反応はマルタの期待とはまったく異なるものでした。マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

マルタが思い煩っていた「いろいろなこと」とは、主イエスの目から見れば「それほど大切ではないいろいろなこと」だったのです。誤解しないでください、「奉仕が大切ではない」と言っているのではありませんよ。主イエスがここで指摘しているのは、優先順位、また動機にかかわることです。「忙しさのせいで『一番大切なもの』を見失ってしまったら本末転倒ではありませんか?」というやさしい指摘です。主イエスはマルタもマリヤも両方を愛しておられたのです。

Ⅱ.関係を優先したマリヤ

私たちがその場にいて、忙しく奉仕をしているマルタと主イエスの話しに夢中になって座り込んでいるマリヤを目にしたならば、どう感じるでしょうか?「なんと気の利かないマリヤだろう!マルタが憤慨するのも無理はない!」とマルタに同情したと思うのですが、いかがでしょうか?

主イエスはこうおっしゃりたかったのではないでしょうか。「マルタ、私に気を使ってご馳走を作ってくれるのはありがたいけれど、あるものを出してくれたらそれで十分だよ。それより、あなたもここに来て私の話しをゆっくり聞いてくれないか?」

マルタが一生懸命(思い煩い、心を乱して)しようとしていたことは、必ずしも主イエスが一番望んでいたことではなかった。一方、マリヤは主イエスが一番望んでいたことを優先した。そういうことではないでしょうか。忙しくすることが良いか悪いかということがポイントではありません。

Ⅲ.主イエスが大切にされたもの
 
さて、主イエスご自身はこの地上でどのような生活を送られていたでしょうか?福音書に記されている主イエスの三年半の公生涯はけっしてのんびりしたものではありません。限られた時間の中で、指導者たちからの迫害に遭遇しながらも、天の父に示されたすべての町とすべての人を訪ね、群衆の必要を満たし、弟子たちを訓練し、毎日ハードスケジュールをこなし、十字架というゴールを目指してひたすら忠実に歩まれたのです。最終的に主イエスは父に託された過酷なミッションに応え、すべての人に救いの道をひらくためにご自身を身代わりの犠牲としてささげられました。

もちろん父の命令にあくまでも忠実であられたのは事実です。また私たちを愛してご自身を捧げられたのも事実です。では、何が主イエスを支える動機だったのでしょう。神のひとり子は、罪のないお方でしたが私たちと同じように肉体をもたれ、私たちの経験するすべての弱さや痛みを経験されました。それは、人となられた神の御子が私たちと同じように、なぐさめと励ましを必要とされていたということです。主イエスが最も大切にされたのは、「働き」ではなく「『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』と語られた父なる神との親密な関係」でした。主イエスのすべての働きはその関係から生まれたものです。

人となられた神の御子は、父なる神からのなぐさめと励ましを受けるために、たびたびその働きから離れひとりになって父との時間を過ごされました。また、同時に主イエスは、マリヤやマルタのような人間の友人たちとの親しい関係をも必要としていたのです。主イエスはご自身を慕い愛する人々と時間を過ごすときに、彼らからも慰めと励ましを受けていたのです。

もっとも大切な命令は何かと問われたときに主イエスは「心から神を愛し、人を自分と同じように愛することです。」とお答えになりました。これは「シェマーイスラエル/聞きなさい。イスラエル。」で始まるユダヤ人の祈りの一部分(申命記6章4節~)でもあります。ここを読むと、「神を愛しなさい」という命令が「聞きなさい」という命令ではじまっていることが分かります。聞くことが愛することの出発点なのです。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
(申命記6章4節~6節)