イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2019年5月12日日曜日

どうしても必要なこと


回に引き続いて「関係を築く」ことについていっしょに学んでいきたいと思います。皆さん忙しく生活されていると思いますが、一つ質問させてください。学生であるならば「何のために勉強されていますか?」仕事をしておられる方であるならば「何のために仕事をしておられますか?」主婦であるならば「何のために育児をし、家事をしておられますか?」「望んでいる職業にすすむため」「家族を支えるため」「子供たちにできるだけ良い教育を受けさせるため」いろいろな答えが返ってくると思います。例外なく自分自身と家族、子供たちの良い将来を望んで忙しく生きていることは確かだと思いますが、何か大切なものを見失っていないでしょうか?

クリスチャンである私たちはどうでしょうか?「何のために時間をささげて、ともに集まり、奉仕をし、伝道しているのでしょう?」現代に生きる私たちは、クリスチャンであろうがなかろうが、日々の必要に迫られて実に忙しく生きています。少し立ち止まって、忙しさの中で「何かをすることより大切なもの」を見失っていないか考えてみたいと思います。

さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」※別訳:取り上げられることはない。
(ルカの福音書10章38節~42節)

Ⅰ.奉仕を優先したマルタ

翻訳によってはマリヤが妹として訳されていますが、ギリシャ語からは、だれが年長であるかはわかりません。とりあえず、話を進めやすいように(新改訳聖書第三版に従って)マリヤを妹として読んで進めたいと思います。主イエスはベタニアに住むこの二人の姉妹、そしてここには登場しませんが兄弟のラザロと特に親しい関係にあったようです。この場面では、てきぱきと仕事をこなす働き者のマルタの落ち着かない様子が描かれています。敬愛する主イエスをできる限り持てなしたいと願うマルタの動機は決して間違ったものではありませんでした。むしろ良い動機で忙しく奉仕していたのです。一方、マリヤの方はてんてこ舞いの姉をよそに主イエスの話に夢中になって耳を傾けていました。皆さんがその場にいたらどう感じるでしょうか。もしラザロがいたら「話しを聞くのはマルタを手伝ってからにしなさい」と注意したと思います。

業を煮やしたマルタは、妹のマリヤにではなく主イエスに不満をぶつけます。「私だけ忙しくしていてなんとも思わないのですか?妹に手伝うように言ってください!」ところが、主イエスの反応はマルタの期待とはまったく異なるものでした。マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

マルタが思い煩っていた「いろいろなこと」とは、主イエスの目から見れば「それほど大切ではないいろいろなこと」だったのです。誤解しないでください、「奉仕が大切ではない」と言っているのではありませんよ。主イエスがここで指摘しているのは、優先順位、また動機にかかわることです。「忙しさのせいで『一番大切なもの』を見失ってしまったら本末転倒ではありませんか?」というやさしい指摘です。主イエスはマルタもマリヤも両方を愛しておられたのです。

Ⅱ.関係を優先したマリヤ

私たちがその場にいて、忙しく奉仕をしているマルタと主イエスの話しに夢中になって座り込んでいるマリヤを目にしたならば、どう感じるでしょうか?「なんと気の利かないマリヤだろう!マルタが憤慨するのも無理はない!」とマルタに同情したと思うのですが、いかがでしょうか?

主イエスはこうおっしゃりたかったのではないでしょうか。「マルタ、私に気を使ってご馳走を作ってくれるのはありがたいけれど、あるものを出してくれたらそれで十分だよ。それより、あなたもここに来て私の話しをゆっくり聞いてくれないか?」

マルタが一生懸命(思い煩い、心を乱して)しようとしていたことは、必ずしも主イエスが一番望んでいたことではなかった。一方、マリヤは主イエスが一番望んでいたことを優先した。そういうことではないでしょうか。忙しくすることが良いか悪いかということがポイントではありません。

Ⅲ.主イエスが大切にされたもの
 
さて、主イエスご自身はこの地上でどのような生活を送られていたでしょうか?福音書に記されている主イエスの三年半の公生涯はけっしてのんびりしたものではありません。限られた時間の中で、指導者たちからの迫害に遭遇しながらも、天の父に示されたすべての町とすべての人を訪ね、群衆の必要を満たし、弟子たちを訓練し、毎日ハードスケジュールをこなし、十字架というゴールを目指してひたすら忠実に歩まれたのです。最終的に主イエスは父に託された過酷なミッションに応え、すべての人に救いの道をひらくためにご自身を身代わりの犠牲としてささげられました。

もちろん父の命令にあくまでも忠実であられたのは事実です。また私たちを愛してご自身を捧げられたのも事実です。では、何が主イエスを支える動機だったのでしょう。神のひとり子は、罪のないお方でしたが私たちと同じように肉体をもたれ、私たちの経験するすべての弱さや痛みを経験されました。それは、人となられた神の御子が私たちと同じように、なぐさめと励ましを必要とされていたということです。主イエスが最も大切にされたのは、「働き」ではなく「『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』と語られた父なる神との親密な関係」でした。主イエスのすべての働きはその関係から生まれたものです。

人となられた神の御子は、父なる神からのなぐさめと励ましを受けるために、たびたびその働きから離れひとりになって父との時間を過ごされました。また、同時に主イエスは、マリヤやマルタのような人間の友人たちとの親しい関係をも必要としていたのです。主イエスはご自身を慕い愛する人々と時間を過ごすときに、彼らからも慰めと励ましを受けていたのです。

もっとも大切な命令は何かと問われたときに主イエスは「心から神を愛し、人を自分と同じように愛することです。」とお答えになりました。これは「シェマーイスラエル/聞きなさい。イスラエル。」で始まるユダヤ人の祈りの一部分(申命記6章4節~)でもあります。ここを読むと、「神を愛しなさい」という命令が「聞きなさい」という命令ではじまっていることが分かります。聞くことが愛することの出発点なのです。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
(申命記6章4節~6節)

2019年5月5日日曜日

霊の家に築き上げられなさい


Ⅰ.霊の家に築き上げられなさい

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 
(ペテロの手紙第一2章4節~6節)

その人の人間関係を見ることで「その人がどんな人であるか」ある程度知ることができると思います。どんな価値観を持ち、何を大切にし、どんな関心や願いを持っているかを知る一つの有効な方法だと思います。教会はどうでしょうか?グレイスハウスは、国内海多くの教会の牧師先生方や宣教団体のリーダーたちとの交流がありますが、その関係がグレイスハウスを特徴づけていると言えると思います。

グレイスハウスの中心的な価値観(コア・バリューとも言いますが)は、「神を愛し、人を愛し、キリストの弟子をつくる」という短いセンテンスに集約されています。教会増殖ムーブメントのパイオニアであるラルフ・モア先生の大切にしている価値観でもあります。

先日の開催されたセミナーに、中国の教会からラルフ先生に招かれた何人かのリーダーたちがお忍びで参加されていました。その中に、2年間で何十人もの人をキリストに導いた一人の男性がいたのですが、彼は救われてまだ日の浅いクリスチャンでした。ラルフ先生がこの中国人の友人に、どのようにして短期間にそんなに大勢の人を救いに導くことができたのか尋ねたのですが、彼の答えはこうでした。「いっしょにコーヒーを飲んだのです。」彼の言わんとしたことは、自分の家族や友人、職場の同僚や上司とコーヒーを飲みながらいっしょに時間を過ごして、人生を分かち合ったということです。その中で自分の信じているイエス様のことを証ししたのです。

この救われた家族や友人たちとは、今でもコーヒーを飲みながらいっしょに聖書を学び、祈り合っているそうです。救われて間もない彼が弟子作りをしているのです。伝道や弟子作りと言うと難しく聞こえるかもしれませんが、その中心にあるのは関係を築くことです。グレイスハウスのコア・バリューも「関係を築くこと」に根差しています。大きなグループは、親密な関係を築くことに適していません。スモールグループを作り、一人一人がそこにつながっていくことが大切だと考えています。

周囲の人々に関心を向け、時間を共有し、人生を分かち合い、関係を築きキリストを証しすることが伝道であり、そこからともに聖書を学び、ともに祈り合うそのような関係に導いていくことが弟子作りの出発点です。そのような関係はそこに参加する人々が求め造り上げていかなければ決して自動的に与えられるものではありません。私たちはそのような関係求めているでしょうか?

Ⅱ.未来に備えて良い基礎を築き上げるように

また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。 
(テモテへの手紙第一6章18節~19節)

パウロは弟子のテモテに、「将来のために良い基礎を築き上げるように」人々に勧めなさいと命じています。前後の文脈では、自分たちに与えられているものを人々の必要のために喜んで分かち合うようにと教えています。富を分かち合うこと、経済的にささげることも神との関係、教会との関係を築く大切な要素です。ささげるというよりは神様にお返しすると考えた方が良いと思います。

聖書全体の文脈を読むときに、恵みの時代に生きる私たちには義務的な献金は課せられていないと私(洋二)は理解しています。新約聖書には、教会が十分の一を律法的義無から捧げていたという記述はどこにもありません。一方で愛によって動かされたクリスチャンたちが、律法が要求する以上のものを豊かにささげていたという記録は残されています。(※ちなみに旧約の律法が要求する十一のささげものは、ひとつだけではなく目的のことなる三つの十一が命じられています。ここでは詳しく説明しませんが、この「律法の命じる三つの十一のささげもの」を一年に換算すると、旧約時代のユダヤ人たちは生産物の10%ではなく23.3%に相当するものを捧げていた計算になります。)

グレイスハウスには十一献金を忠実に守られてきた方がおられると思います。私はそのような人々の忠実な信仰を尊重し、また感謝しています。ただ、どんな献金であっても律法的な動機や義務からではなく自由な意思と感謝からささげていただければと願っています。新約聖書は「心で決めたとおりにしなさい。」と命じています。それが10%なのか、20%なのかあるいは5%なのかは、それぞれが神様との関係の中で決めるべきことだと私は理解しています。しかし、同時に「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」というのも聖書の確かな約束であることを忘れてはなりません。

豊かに惜しみなくささげる人々とは、神さまとの関係(神の国)に投資している人々です。ささげるものは必ずしも物質的なものとは限りません。時間であるかもしれないし労力であるかもしれません。豊かにささげる人々が持てるものを見返りなくささげるのは、そこに喜びを感じるからです。

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。      
(コリント人への手紙第二9章6節~7節)

Ⅲ.最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさい

しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。                  
(ユダの手紙1章20節~21節

「最も聖い信仰」とは神さまだけに向けられた信頼です。本当に信頼しようとするなら、自分自身をそっくり全能者でり、私たちの父である神にささげること、預けること、お任せすることが求められてきます。

私たちは自分自身に対して責任が与えられています。価値のないものとして粗末に扱うこともできるし、自分の所有権を主張してわがままな動機で扱うこともできます。あるいは、キリストの尊い犠牲によってあがなわれたすばらしく価値のあるものとして大切に扱うこともできます。聖さについてはメッセージ中で何度か触れてきましたが、ただ単に「神に喜ばれないことをしない」ということではありません。そもそも私たちは「神に喜ばれないことをしてしまう者」なのですから、それを素直に認めて、キリストのご支配にどうしようもない自分を捧げていくことが大切だと思います。聖く生きるとは神様のご支配に自分(思い、ことば、体、関係)を明け渡していく生き方です。そのように生きる決断を日々していくときに、助け主である聖霊が私たちを助けてくださるのです。聖書はクリスチャンを聖徒(saints 聖なる者)と呼んでいます。聖徒は神の所有とされた民とも呼ばれています。私たちは自分で聖なる者となることはできませんが、聖い者と呼んでくださる方との親密な関係の中に生きる選択肢は与えられています。聖徒、神の所有とされた民、とはキリストによって私たちに与えられたアイデンティティでもあります。神の招きに応えて、その中に生きるかどうかは私たちの日々の選択にかかっているのです。