2019年4月7日日曜日

彼の打ち傷によって


まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。            
(イザヤ書53章4節~6節)
多くの宗教は、神に赦していただくために、ご利益をいただくために、救われるために人間に犠牲を払うことを要求します。一方聖書は、人間を救うために神がご自身を犠牲にされたと教えています。そこに決定的な違いがあります。福音は、「イエス・キリストを信じるならば、だれでも無条件で救われる」という、すべての人にとっての良き知らせ(英語ではGOOD_NEWS)です。   

しかし、その良き知らせは、人となられた神、救い主であるイエス・キリストが私たちの身代わりとなり十字架の上で苦しみを受け、いのちを捨ててくださったその犠牲の上に成り立っているのです。イザヤ書53章は、やがて来られる救い主の受難(すべての人のために苦しみを受けられること)を預言しています。メシヤ(キリスト)に関する旧約聖書の中心的な預言の一つです。

神の子とされた私たちは恵みの中に生かされています。でもその恵みは、キリストの犠牲によって与えられている恵みです。そのことを覚えて日々歩んでいくことが大切です。

Ⅰ.彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった 

私たちが「犠牲を払う」と言う時には、もちろん「自分を犠牲にして人に尽くす」という言い方もしますが、しばしば何らかの見返りが伴っています。たとえば、「多くのものを犠牲にして夢を叶えた」と言うように、最終的に自分の利益のためになるからという条件がついています。

一方、聖書では「いけにえ」という言葉が何度も使われています。犠牲は犠牲であっても、文字通り身代わりになることを意味しています。旧約聖書では、神の民の罪の身代わりとして、数えきれないほどの動物が「いけにえ」としてささげられ(殺され)ています。新約聖書の中で、キリストは「神の小羊」と呼ばれていますが、人間の罪の身代わり(いけにえ)としてご自身をささげられたからです。ただ私たちをご自身のものとして取り戻したいという願い(愛)から、ご自身を犠牲にされたのです。神様の愛は無条件で見返りを求めない愛です。

「彼は私たちの病を負い」とありますが、ここで語られている「病」は「肉体の病気」だけに限定して考えるのではなく、私たちの霊と心と体、人間としての存在を蝕んでいる「罪という病」を指していると考えた方が良いと思います。聖書は「神から離れたすべての人が罪によって病んでおり、その病は霊的な死をもたらす」と教えています。

「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」ここだけでなく他の箇所も完了形で書かれていますが、やがて来られる救い主が、私たち人間の罪とその罪がもたらす痛み(苦しみ)をすべて負ってくださるという預言です。

Ⅱ.彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた

イザヤ書53章が描く救い主の姿は、人々があこがれるようなカリスマ的な指導者でも、超人的な英雄でもありません。解放者を待ち望む人々にとっては、むしろその期待を裏切るような姿が描かれています。

「救い主は、私たち人間のすべての罪を負い、身代わりとなり、死刑判決を受け、苦しみ、処刑された。」そして「それは私たち人間の罪を赦し、癒し、回復するためであった。」というのがイザヤ書53章の中心的なメッセージです。メル・ギブソンが監督した「パッション」(The passion of the Christ)はイザヤ書53章のキリストの受難をテーマにした映画です。

Ⅲ.彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた

イエス・キリストを信じる私たちが無条件で赦されるのは、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架の上で裁かれたからです。私たちが呪いから解かれて自由にされるのは、イエス・キリストが呪われた者となってくださったからです。私たちが癒され、回復されるのは、イエス・キリストが病を負い、刺し通され、砕かれたからです。私たちが滅びから逃れ、永遠のいのちが与えられるのは、イエス・キリストがご自身のいのちを捨てられたからです。

ここで語られている「平安」と訳されている原語(ヘブル語)はシャロームです。(以下は過去のメッセージの要約です。)シャロームはただ単に「こころの平和」「争いのない状態」だけを意味する言葉ではありません。平和、平安、繁栄、健康、充足、知恵、救い、勝利・・・神だけが人間に与えることのできるすべての祝福を表す言葉です。罪によって、神との関係を失ったときに、人間同士の関係も壊れ、自然界との調和のあった関係も壊れてしまいました。シャロームを失ってしまったのです。キリストが十字架の上で苦しみを受け、ご自身のいのちを代価としてささげられたのは、私たちの罪を赦し、神との和解をもたらし、私たちが神の望む本来の姿に回復され、シャロームの中に生きるようにするためでした。イエス・キリストを信じる私たちがシャロームを受け取ることができるのは、キリストがそのための代価を支払ってくださったからです。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
(ペテロ第一の手紙2章22節~24節)