2019年3月10日日曜日

互いに愛し合いなさい


◆ペテロの手紙第一4章7節~11節
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

Ⅰ.万物の終わりが近づきました

「神様のご計画がいよいよ仕上げの段階に入った」という意味で語られています。この世界に対する、教会に対する、また私たち一人一人に対する神様の偉大な、またうるわしいご計画の完成が迫っているという宣言であって、単にすべてが終わってしまうという悲観的な宣告をしているのではありません。もし、自分にあまり時間が残されていないことを知らされたら、私たちはどう反応するでしょうか。先のことをあまり考えないで、ただその日その日を生きているなら、不意を打たれてパニックになるかもしれません。もう少し真剣に生きているなら、「このままでいいだろうか?」ときっと自問すると思います。貴重な時間を何に使ったらよいか、優先順位について、日々の選択について考え直すのではないでしょうか。

Ⅱ.祈りのために、心を整え身を慎みなさい

日々、祈りを通して神様と語り合い、神様の思いと願いを知り、それを自分のものとして受け止めていくときに、私たちの生き方は変えられていきます。私たちは気を付けていないと、自分の願い、自分の考え、自分の計画に従って、人生を自分でコントロールしようとする生き方に陥ってしまいます。神様が願っておられるのは、私たちが、神の最善の計画の中を神の尊い作品として生きていくことです。この二つの生き方には天と地ほどの差があります。祈りがカギです。祈りは私たちの心を造り主に明け渡していくプロセスです。クリスチャンである私たちが神様との対話を失ってしまうなら、暗闇の中を手探りで歩くようなことになってしまいます。祈りのない生活は、地図もナビもなしに標識のない見知らぬ土地をドライブするのに似ています。私たちは欺かれやすい、誘惑に流されやすい存在だからです。

Ⅲ.互いに愛し合い、もてなし合い、仕え合いなさい

この箇所では「互いに」ということばが三回繰り返して使われています。私たちは神様から与えられた人生を一人で旅しているわけではありません。ともに旅をする仲間として、私たちはだれかを必要していますし、だれかが私たちを必要としているのです。

1.互いに熱心に愛し合いなさい

愛と赦しは切り離して考えることはできません。赦しは愛の性質の一部分だからです。人を罪から引き離して、神のもとに立ち帰らせ、神のご計画の中に生かすことのできるのは、イエス・キリストを通して現わされた神の愛だけです。罪の中に死んだ私たちのたましいを生き返らせ、聖なる者とし、回復し、やがて完成することのできるのも神の愛です。神の愛には大きな犠牲がともなっています。

2.互いに親切にもてなし合いなさい

「もてなす」と訳されているもともとの言葉の意味は「家に迎え入れなさい」です。時間を割いていっしょに話をし、食事をし、お互いを知ることなしには親しい関係を築くことはできません。ペテロは教会のメンバーに、お互いを友人として、あるいは神の家族として迎え入れるように勧めています。もちろん私たちのようにそんなに大きくない教会でも数十人のメンバーが同じように関わっていくことはできないです。大切なのはお互いを受け入れ合うことのできる小さなグループがたくさんできてくることです。

3.賜物を用いて、互いに仕え合いなさい

英語ではギフトという言葉が使われていますが、賜物はその人が最初から持っているものではなく、神様がその人に与えた贈り物です。何か特別な才能やすぐれた技能だけが賜物ではありません。みなさんは健康でしょうか?だれかを訪ねて行くくらいの体力はないでしょうか?出かけていけなくても電話をかけて励ましたり、メールを送って慰めたりすることはできないでしょうか?忙しくても少しの時間を周囲の人たちのために使うことはできないでしょうか?

クリスチャンが集まっている教会とはいえ、私たちはみな完成に向かって進んでいる途上にある不完全な存在です。欠点を持った不完全なもの同士が関係を築いくことには常にチャレンジがあります。私たちが教会として建て上げられていくためには、キリストにあって互いに愛し合うことが必要であり、互いに受け入れ合うことが必要であり、互いに仕え合うことが必要なのです。何よりも私たち一人一人が祈りを通して神様との親密な関係を築いていくことが必要です。「いつ終わりが来てもいい」そのような生き方ができるなら幸いだと思います。