2019年3月20日水曜日

聖められることを追い求めなさい


すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
ヘブル人への手紙12章14節

Ⅰ.聖められること

新約聖書で「聖」と訳されているギリシア語は「ハギオス」です。旧約聖書の聖さを表す言葉「カードーシュ」(ヘブル語の意味を引き継いでいます。両方とも「区別する」という意味があります。「神は聖である」とは「神が被造物と区別された存在である」こと表しています。神だけが被造物(人やモノ)を「聖なるもの」とすることのできるお方です。

「聖さ」は人間の努力や意思によって得られるものではありません。「聖められることを追い求めなさい。」と語られているのは、聖なる神との人格的な関係の中で、神の呼びかけに応えて、神の民(神の子、キリストの弟子、聖徒、キリストのからだの一部分・・・)として、人生のすべての面でその召しにふさわしく生きるようにとの私たちに対する呼びかけです。

神の召しに応えようとする人々(神との関係を何よりも優先して求める人々)を聖霊はその召しにふさわしいものへと造り変えてくださるのです。それは私たちの力によるのではありません。人間は本来神によって神だけのために造られた尊く聖い存在でした。罪によってその「聖さ」を失ってしまった人間をイエス・キリストは、新たに聖い存在へと造り変えてくださるのです。

Ⅱ.追い求めること

「追い求める」と訳されている原語は「ゼーテオー」という言葉です。「ゼーテオー」は、猟師が狙った獲物を懸命にどこまでもあきらめずに追いかける、そのような姿を連想さる言葉です。ただ求めるのではなく、他をなげうってあるものを執拗に追い求めることを意味する言葉です。新約聖書マタイの福音書から例をあげると、「ゼーテオー」は次の箇所で使われています。

「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)
「捜しなさい。そうすれば見つかります。」(マタイ7:7~8)
「百匹の羊のうちの一匹が迷い出したとしたら、それを捜しに行かないでしょうか。」(マタイ8:12)

他のものには目もくれないで、一心に、懸命に、どこまでもそれだけを追い求める。私たちはこのような気持ちで「聖さ」を追い求めているでしょうか。聖書の教える「聖さ」とは神様との親密な関係の中に自分をそっくりささげることです。それが神に造られた本来のうるわしい自分の姿を取り戻すことになるのです。

Ⅲ.主を見ること

私たちがどこにいても、どのような状態でも、たとえ神様から目をそらしていたとしても、神様はいつも私たちに目を留めておられます。また、私たちに語りかけたいこと、伝えたい願いがあるのです。私たちはどうでしょうか。神様のまなざしを見ているでしょうか、語りかけている言葉を聞き取ろうとしているでしょうか、その願いを受けとめようとしているでしょうか。「聖くなければ、だれも主を見ることはできない。」と書いてありますが、その逆もまた真なりです。「神を見つめて追い求めなければ、聖くなることはできない。」のです。

聖書の教える「聖さ」とは、単に「罪を犯さないということ」でもありませんし、「良いことをして神様に受け入れられようとすること」でもありません。聖書の教える「聖さ」とは、「イエス・キリストの支払われた代価によって、神に買い取られた尊い存在であることを認めて、聖霊に助けていただき、それにふさわしく生きていくこと」です。神様に向かって「私はあなたのものです」「私のいのちはあなたのものです」と告白する生き方です。部分的に神にささげたものを聖書は「聖い」とみなしません。神様は、イエス・キリストの犠牲を通して買い取られた私たちを、すっかりご自身のものとされた私たちを「聖い」「これは大切なわたしの宝だ」と言ってくださるのです。

夫婦、親子、友人、どんな人間関係であってもお互いの時間や関心を共有することがなければ、語る言葉に耳を傾けることがなければ、相手の心に何があるかを見る(知る)ことはできません。私たちと神様との関係も同じです。「主を見る」とは神様のこころに何があるかを知ることです。

「聖められる」とは、身も心も「神のもの」とされて生きることです。「追い求める」とはどこまでも一心に追い求めることです。そして「主を見る」とは、神様のこころにある願いを知ることです。それはどんな働きをすることよりも、成功することよりもずっと大切なことだと聖書は教えています。