イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2019年3月31日日曜日

ヒーローメーカー


聖書には多くの神のヒーローが登場します。アブラハム、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、士師たち、ダビデ、預言者たち、十二使徒とパウロ、名前を挙げればきりがありませんが、旧約聖書にも新約聖書にも、神の召しに応え、神のご計画の中にあって力強く用いられたヒーローたちがいます。しかし、その一人ひとりの背後には彼らを陰でささえたヒーローメーカーたちがいるのです。教会に求められているのは少数のヒーローではなく大勢のヒーローメーカーです。自分がヒーローになろうとするリーダーではなく、ヒーローを生み出すリーダーです。

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
(マタイの福音書25章14節~30節)

この主イエスのたとえ話の焦点は、お金を預けられたしもべたちが、儲けたか儲けなかったかよりも、主人のために使ったか使わなかったかの方に置かれていると思います。儲けたのは事業に投資したことの結果です。主人が注目しているのはしもべたちの動機です。私たちは自分にだけ関心を向けているならば預かったお金を土の中に埋めたしもべと同じになってしまいます。リスクを冒して他の人たちに投資する人たちがヒーローメーカーとなることができるのです。

◆ヒーローの陰にはヒーローメーカーがいる。

ヒーローメーカーがいるのは舞台裏です。彼らは名声を求めず、しかし忠実に支援者としての役割を担っています。ヒーローを生み出すヒーローを生み出すヒーローを育てることを求めているのです。

彼らは他の人々に持てるものを投資し、その人たちの可能性が開花することによって、彼らが次の人々に投資できるように助けたいと願っています。この循環によって増殖が引き起こされるのです。

パウロや他の人々を表舞台に送り出したバルナバもそのようなヒーローメーカーでした。バルナバがパウロの身元引受人となって使徒たちのもとに連れていくまでは、パウロの目は完全に開かれていたと言えません。後に、彼はパウロをアンテオケ教会に連れて行き、最終的に教会開拓者として育てます。その結果、福音が前進し世界が変えられたのです。

バルナバは、ヒーローとなることから退き、ヒーローを育てるメンターとなったのです。彼の育てたヒーローたちもやがて彼と同じようにメンターとしての役割を担うようになりました。パウロがテモテのメンターとなったのはその良い例です。

◆究極のヒーローメーカー

主イエスは究極のヒーローメーカーでした。主イエスは、神が私たちのために備えてくださった最善の賜物があがなわれ回復されるようにと、その死を通して私たちにご自身を与えてくださいました。

主イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」と言われましたが、ヒーローを育てることについて語っていたのです。主イエスは、その生き方を通して模範を示されました。私たちもまたヒーローメーカーとなるように招かれているのです。

逆説的に聞こえるかもしれませんが、もし、私たち自分自身がヒーローになることを望むなら、この世で何か偉大なことを達成しなければなりません。しかし、私たちがヒーローメーカーになることを望むのなら、持てるものを投資した人々によって偉大なことがなされ、その人たちが投資した次の人々によって偉大なことがなされ、その連鎖が続いていくのです。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と称賛され、主に抱擁される日を私たちは待ち望んでいます。しかし、その称賛が他の人々に対する私たちの投資と切り離せないものであったならどうでしょうか。

◆ヒーローメーカーの五つの特質

どこから始めたらよいか理解するために、主イエスの生き方に目を向けてみましょう。

デイブ・ファーガソン(Exponential代表、共同創設者)は、究極のヒーローメーカーである主イエスの生き方、またそのミニストリーに少なくとも五つの特質(習慣、実践)を見出すことができると強調しています。これらは現代のヒーローメーカーにも見出すことのできる特質です。

ヒーローメーカーは、次世代を育てる中でこの五つを実践していますが、それだけでなく、彼らがすること全てにおいて、リーダーシップに関するこの価値観を体現し、実践しています。

ヒーローメーカーの特質1:増殖を考えている

自分の能力にではなく、次の世代の可能性に目を向ける。

最初の特質は考え方に関係しています。ヒーローメーカーは「自分の最善の努力によって、ミニストリーを最大限拡大することができる」とは考えません。むしろ、「他の人々のリーダーシップを建て上げることによって、効果的なミニストリーが始まる」と考えます。

ヒーローメーカーの特質2:潜在的リーダーを承認する

自分のリーダーシップに固執せずに、次の世代がリーダーシップを持てるように育て助ける。

二つ目の特質は何に目を向けるかに関係しています。ヒーローメーカーは自分のリーダーシップから目を離し、周囲の人々の潜在的なリーダーシップに目を留めます。

ヒーローメーカーの特質3:弟子を増殖する

次の世代に投資するだけでなく、彼らが新たにその次の世代を育てられるように助ける。

三番目の特質は誰と何を共有するかに関係しています。ヒーローメーカーは、自分が知っていることを教え、他の人々が主イエスに従って生活するのを援助します。しかしそれだけではなく、「弟子を作る次世代のリーダー」を育てるために、自分の人生を分かち合い、持てるものを彼らに投資します。またそのことを通して、彼らが同じ方法で他の人々を新たなリーダーとして育てるようになります。

ヒーローメーカーの特質4:賜物を活性化する

自分の賜物に固執せずに、人々の賜物に目を向けそれが豊かに用いられるように願い助ける。

四番目の特質は何を祝福の対象とするかに関係しています。ヒーローメーカーは自分に与えられた賜物を祝福してくださるようにと神に求めるだけでなく、自分が育て送り出したリーダーたちを祝福してくださるようにと神に求めます。

ヒーローメーカーの特質5:神の国を建て上げる

自分の働きに固執せず、次の世代に関心を向け、彼らを通して神の国が広げられるように助ける。

五番目の特質は何を評価するかに関係しています。ヒーローメーカーは、誰が自分の働きのために来てくれるかではなく、誰が神の働きをしているかの方に関心を向けます。

ヒーローメーカーの採点表があったなら、あなたは自分にどのような点数をつけるでしょうか。

2019年3月20日水曜日

聖められることを追い求めなさい


すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
ヘブル人への手紙12章14節

Ⅰ.聖められること

新約聖書で「聖」と訳されているギリシア語は「ハギオス」です。旧約聖書の聖さを表す言葉「カードーシュ」(ヘブル語の意味を引き継いでいます。両方とも「区別する」という意味があります。「神は聖である」とは「神が被造物と区別された存在である」こと表しています。神だけが被造物(人やモノ)を「聖なるもの」とすることのできるお方です。

「聖さ」は人間の努力や意思によって得られるものではありません。「聖められることを追い求めなさい。」と語られているのは、聖なる神との人格的な関係の中で、神の呼びかけに応えて、神の民(神の子、キリストの弟子、聖徒、キリストのからだの一部分・・・)として、人生のすべての面でその召しにふさわしく生きるようにとの私たちに対する呼びかけです。

神の召しに応えようとする人々(神との関係を何よりも優先して求める人々)を聖霊はその召しにふさわしいものへと造り変えてくださるのです。それは私たちの力によるのではありません。人間は本来神によって神だけのために造られた尊く聖い存在でした。罪によってその「聖さ」を失ってしまった人間をイエス・キリストは、新たに聖い存在へと造り変えてくださるのです。

Ⅱ.追い求めること

「追い求める」と訳されている原語は「ゼーテオー」という言葉です。「ゼーテオー」は、猟師が狙った獲物を懸命にどこまでもあきらめずに追いかける、そのような姿を連想さる言葉です。ただ求めるのではなく、他をなげうってあるものを執拗に追い求めることを意味する言葉です。新約聖書マタイの福音書から例をあげると、「ゼーテオー」は次の箇所で使われています。

「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)
「捜しなさい。そうすれば見つかります。」(マタイ7:7~8)
「百匹の羊のうちの一匹が迷い出したとしたら、それを捜しに行かないでしょうか。」(マタイ8:12)

他のものには目もくれないで、一心に、懸命に、どこまでもそれだけを追い求める。私たちはこのような気持ちで「聖さ」を追い求めているでしょうか。聖書の教える「聖さ」とは神様との親密な関係の中に自分をそっくりささげることです。それが神に造られた本来のうるわしい自分の姿を取り戻すことになるのです。

Ⅲ.主を見ること

私たちがどこにいても、どのような状態でも、たとえ神様から目をそらしていたとしても、神様はいつも私たちに目を留めておられます。また、私たちに語りかけたいこと、伝えたい願いがあるのです。私たちはどうでしょうか。神様のまなざしを見ているでしょうか、語りかけている言葉を聞き取ろうとしているでしょうか、その願いを受けとめようとしているでしょうか。「聖くなければ、だれも主を見ることはできない。」と書いてありますが、その逆もまた真なりです。「神を見つめて追い求めなければ、聖くなることはできない。」のです。

聖書の教える「聖さ」とは、単に「罪を犯さないということ」でもありませんし、「良いことをして神様に受け入れられようとすること」でもありません。聖書の教える「聖さ」とは、「イエス・キリストの支払われた代価によって、神に買い取られた尊い存在であることを認めて、聖霊に助けていただき、それにふさわしく生きていくこと」です。神様に向かって「私はあなたのものです」「私のいのちはあなたのものです」と告白する生き方です。部分的に神にささげたものを聖書は「聖い」とみなしません。神様は、イエス・キリストの犠牲を通して買い取られた私たちを、すっかりご自身のものとされた私たちを「聖い」「これは大切なわたしの宝だ」と言ってくださるのです。

夫婦、親子、友人、どんな人間関係であってもお互いの時間や関心を共有することがなければ、語る言葉に耳を傾けることがなければ、相手の心に何があるかを見る(知る)ことはできません。私たちと神様との関係も同じです。「主を見る」とは神様のこころに何があるかを知ることです。

「聖められる」とは、身も心も「神のもの」とされて生きることです。「追い求める」とはどこまでも一心に追い求めることです。そして「主を見る」とは、神様のこころにある願いを知ることです。それはどんな働きをすることよりも、成功することよりもずっと大切なことだと聖書は教えています。

2019年3月10日日曜日

互いに愛し合いなさい


◆ペテロの手紙第一4章7節~11節
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

Ⅰ.万物の終わりが近づきました

「神様のご計画がいよいよ仕上げの段階に入った」という意味で語られています。この世界に対する、教会に対する、また私たち一人一人に対する神様の偉大な、またうるわしいご計画の完成が迫っているという宣言であって、単にすべてが終わってしまうという悲観的な宣告をしているのではありません。もし、自分にあまり時間が残されていないことを知らされたら、私たちはどう反応するでしょうか。先のことをあまり考えないで、ただその日その日を生きているなら、不意を打たれてパニックになるかもしれません。もう少し真剣に生きているなら、「このままでいいだろうか?」ときっと自問すると思います。貴重な時間を何に使ったらよいか、優先順位について、日々の選択について考え直すのではないでしょうか。

Ⅱ.祈りのために、心を整え身を慎みなさい

日々、祈りを通して神様と語り合い、神様の思いと願いを知り、それを自分のものとして受け止めていくときに、私たちの生き方は変えられていきます。私たちは気を付けていないと、自分の願い、自分の考え、自分の計画に従って、人生を自分でコントロールしようとする生き方に陥ってしまいます。神様が願っておられるのは、私たちが、神の最善の計画の中を神の尊い作品として生きていくことです。この二つの生き方には天と地ほどの差があります。祈りがカギです。祈りは私たちの心を造り主に明け渡していくプロセスです。クリスチャンである私たちが神様との対話を失ってしまうなら、暗闇の中を手探りで歩くようなことになってしまいます。祈りのない生活は、地図もナビもなしに標識のない見知らぬ土地をドライブするのに似ています。私たちは欺かれやすい、誘惑に流されやすい存在だからです。

Ⅲ.互いに愛し合い、もてなし合い、仕え合いなさい

この箇所では「互いに」ということばが三回繰り返して使われています。私たちは神様から与えられた人生を一人で旅しているわけではありません。ともに旅をする仲間として、私たちはだれかを必要していますし、だれかが私たちを必要としているのです。

1.互いに熱心に愛し合いなさい

愛と赦しは切り離して考えることはできません。赦しは愛の性質の一部分だからです。人を罪から引き離して、神のもとに立ち帰らせ、神のご計画の中に生かすことのできるのは、イエス・キリストを通して現わされた神の愛だけです。罪の中に死んだ私たちのたましいを生き返らせ、聖なる者とし、回復し、やがて完成することのできるのも神の愛です。神の愛には大きな犠牲がともなっています。

2.互いに親切にもてなし合いなさい

「もてなす」と訳されているもともとの言葉の意味は「家に迎え入れなさい」です。時間を割いていっしょに話をし、食事をし、お互いを知ることなしには親しい関係を築くことはできません。ペテロは教会のメンバーに、お互いを友人として、あるいは神の家族として迎え入れるように勧めています。もちろん私たちのようにそんなに大きくない教会でも数十人のメンバーが同じように関わっていくことはできないです。大切なのはお互いを受け入れ合うことのできる小さなグループがたくさんできてくることです。

3.賜物を用いて、互いに仕え合いなさい

英語ではギフトという言葉が使われていますが、賜物はその人が最初から持っているものではなく、神様がその人に与えた贈り物です。何か特別な才能やすぐれた技能だけが賜物ではありません。みなさんは健康でしょうか?だれかを訪ねて行くくらいの体力はないでしょうか?出かけていけなくても電話をかけて励ましたり、メールを送って慰めたりすることはできないでしょうか?忙しくても少しの時間を周囲の人たちのために使うことはできないでしょうか?

クリスチャンが集まっている教会とはいえ、私たちはみな完成に向かって進んでいる途上にある不完全な存在です。欠点を持った不完全なもの同士が関係を築いくことには常にチャレンジがあります。私たちが教会として建て上げられていくためには、キリストにあって互いに愛し合うことが必要であり、互いに受け入れ合うことが必要であり、互いに仕え合うことが必要なのです。何よりも私たち一人一人が祈りを通して神様との親密な関係を築いていくことが必要です。「いつ終わりが来てもいい」そのような生き方ができるなら幸いだと思います。