イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2019年2月17日日曜日

契約の愛・ヘセド


◆エレミヤ書29章11節~14節
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
わたしはあなたがたに見つけられる。

Ⅰ.神の変わらない契約

この箇所は、神がイザヤを通してイスラエルの民に語られた預言です。当時、イスラエル人は祖国を失い、占領国であるバビロンに捕囚として暮らしていました。失望の中にいた同胞にあてたエレミヤの手紙の一部分です。イスラエルは神の選びの民であり、神のご計画に召された民でした。しかし、神の契約から離れ、自分たちの目に良く見える道を歩むようになり、しだいに彼らを召した神から離れていきます。神はそのような彼らを、忍耐をもって導き、ご自身に立ち返るように何度となく呼びかけるのですが、イスラエルの民は「離れては、立ち返り、また離れる」を繰り返し、やがて神の契約によって与えられた約束の地を失ってしまいます。そのように不真実な民であったにも関わらずあわれみに満ちた神の契約は変わりませんでした。

Ⅱ.契約の愛・ヘセド

人間の苦しみが始まったのは、創造主との関係を失った時からです。聖書は人間の苦しみの根本的な原因がそこにあること、また、創造主である神との関係を失った人生の結末が滅びであることを教えています。私たちを造られた方との関係を持たないでも、一時的には楽しく生きることができるかもしれませんが、その先にあるものは霊的な死です。なぜなら神がすべての霊的ないのちの源だからです。イスラエルの民に与えられた契約は、いのちの源である創造主との特別な選びの中に生きることでした。その関係の中にすべての祝福が約束されていたのですが、その契約を自ら捨ててしまいました。それが旧約聖書の後半の物語です。しかし、そのような民に対して神は驚くべき言葉をもって語りかけておられます。

◆イザヤ書54章10節
たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。

ここで「変わらぬ愛」と訳されているもともとの言葉はヘブル語の「ヘセド」です。このヘセドは「契約の愛」を表しています。何があっても愛し続ける愛、決して手放さない愛です。神の契約を捨てたイスラエルの民は確かに厳しい取り扱いを受けます。しかし、その民に対して、神はこのように語りかけておられるのです。神がイスラエルの民を契約の愛をもって愛されたように、私たちをも契約の愛をもって愛しておられるのです。人間の愛には限界がありますし、状況が変わると変質してしまいます。しかし、私たちに対する神の愛は決して変わりません。新約の時代に神はキリストを通して、ご自身の変わらない愛をすべての人に現わしてくださったのです。神の民とされた私たちはその変わらない契約の愛に応えて生きようとしているでしょうか。

Ⅲ.心を尽くして

神はご自身の契約から離れたイスラエルの民に次のように呼びかけておられます。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」(12節~14節)私たちに求められているのは神を呼び求めて歩む生活、祈る生活です。また、神のみこころを心から求めて生きることです。聖書は、単に求めるのではなく「心を尽くして」求めるようにと語りかけています。そのためには、優先順位を変えなければならないでしょうし、時間を割かなければならないでしょう。また、繰り返し続けていかなければならないと思います。祈りの答えがインスタントに与えられないこと、神のみこころが簡単に分からないことは、私たちにとって幸いだと思うのです。もし、すべてがインスタントに答えられ、得られるとしたならば、そこには「心を尽くす」余地がなくなってしまうからです。不真実な人間が神との契約を破っても、真実な神はあくまでもご自身の契約を守られるのです。

罪を持った私たちは自分の努力で神の契約にふさわしい者となることはできません。イエス・キリストが十字架の上で支払われた代価によって、神は私たちをご自身の新しい契約の中に招き入れてくださったのです。神の民とされた私たちは、平安を与える計画、将来と希望を与える計画の中に生かされているのです。創造主である神は、イエス・キリストを通して、私たちを全く新しく造り変え、今、御子の姿へと造り変え続け、やがてキリストの花嫁として完成しようとされているのです。私たちはどこまで「心を尽くして」この招きに応えようとしているでしょうか。

◆ピリピ人への手紙1章6節
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

自分の試練を、他の人の試練と比べても意味はないし、そんなことはすべきじゃない。
神の家族と手を取り合って一つになろう。いっしょに神様の約束に固く立とう。
君がどんな人か、どんな所を通っているのか、神様は全部わかっている。
神様は君のそばにいて、どんな試練でも必ず乗り越えさせてくださる。
(ニック・ヴイチチ)

2019年2月10日日曜日

神を愛し、人を愛し、キリストの弟子を作る


Ⅰ.足場

建築現場で作業をするために足場を組んでいるのを見かけることがあります。建物を建てるために、あるは修繕するために、作業しやすいように建物の中や外に足場を組む必要があるからです。しかし、建物が完成したときには足場は必要なくなり解体されてほかの場所に運ばれて行きます。

教会とは、建物やプログラムでも、教団組織や伝統でもありません。それらはちょうど足場のようなものであって、私たちが主イエスの召しに応えるための、また主イエスによって託された働きを進めて行くための補助的な道具にしかすぎません。

聖書は神の子とされた人々こそが教会であると教えています。教会とは神の家族とされた人々の関係そのものです。また、聖書は教会を「キリストのからだ」「キリストの花嫁」とも読んでいます。この教会(私たち)を一つにして完成することが神の最高の計画であり、神が心から熱望しておられることなのです。この計画を実現するために、キリストはご自身のいのちを投資されたのです。

足場は一時的なものであることを忘れてはいけません。足場が解体されて取り去られる時がくるのです。それは教会を完成するためにキリストが来られる時であり、完成した教会をキリストが迎えに来られる時です。

Ⅱ.私たちに対する神の召し

◆マタイの福音書22章36節~40節
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

私たちに対する主イエスの召しは、主の語られた「もっとも大切な戒め」の中に集約されています。主イエスは「心から神を愛すること」、「自分と同じように人を愛すること」この二つよりも大切な戒めはないと教えられました。神のために何かをすること以前に、神を愛するように私たちは召されているのです。また、人のために何かをすること以前に、人を愛するように私たちは召されているのです。愛するとは、主イエスがされたように、その人を訪ね、時間をともに過ごし、耳を傾け、いっしょに食事をし、その人のために祈ることです。特別なことではありません。

Ⅲ.私たちに託された神の働き

私たちに託された一番大切な働きとはなんでしょうか。素晴らしい活動やプログラム、素晴らしいワーシップやメッセージ、それも大切かもしれませんが、一番大切な働きではありません。私たちに託されている一番大切な働きとは「キリストの弟子を作ること」です。
◆マタイの福音書28章18節~20節
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

Ⅳ.キリストの弟子を作る

弟子はギリシャ語でマテーテースと言いますが「学ぶ者」を意味します。キリストの弟子とは主イエスから学ぶ人です。主イエスが父なる神を愛され、父なる神のことばに従われたように、私たちもまた父なる神を愛し、父なる神のことばに従って生きる人となることです。主イエスが失われた人々を訪ね探し出して友となられ、一人ひとりを父なる神との関係の中に導かれたように、私たちもまた、私たちの周りにいる人々の友となり、父なる神との関係の中に導く人となることです。

キリストの弟子を作るとは、「私たちの友となった人々がキリストを通して父なる神を愛し、周囲の人々を愛する人生を送ることができるように神の家族として助けること」です。そのようにして「神を愛し、人を愛し、主イエスの弟子を作る人」が次々と生まれてくることを神は願われています。その願いに私たちはどこまで応えようとしているでしょうか。

Ⅴ.聖霊の力

教会を完成するという大事業を実現するために、「私たちが召しに応え、神を愛し、人を愛し、キリストの弟子を作る者となること」を神は待っておられるのです。神が教会に助け主である聖霊を注がれたのは、まさにそのためなのです。やがて足場が取り除かれる時が来るのです。

◆使徒の働き1章8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。