2019年1月6日日曜日

主と同じかたちに


一年の終わりに、新しい年の指針となる聖句を求めてお祈りします。その年その年で、教会としてのフォーカス、(目標や課題など焦点とすべきこと)は変わってきます。しかし、父なる神の永遠の視点から見た時には私たち教会に対する一貫して変わらないフォーカスがあります。それは創造主である神がご自身の願う姿(かたち)へ私たちを造りかえることです。

私たちがどんなに素晴らしく見える目標や課題をもって祈っていたとしても、私たちを造りかえるという創造主の究極の目的から外れているならば、本当の意味で実を結ぶことはできません。私たちが造り変えられていく上でインスタントな答えや解決はありません。日々、キリストのことばに留まって生きるかどうかの私たちの選択にかかっているからです。カギとなる聖句からこのことを分かち合いたいと思います。

しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
主は御霊です。そして、主の御霊のおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント人への手紙第二3章16節~18節)

Ⅰ.人が主に立ち返るなら

私たちの意識がどこにあるか、私たちが何に目を向けているかが問題です。私たちは何を最優先して生きているでしょうか。「主に立ち返る」ためには、優先順位を変えることが求められます。私たちの心(意識)を釘付けにしているものから目を離して、私たちを招いておられる主に目を向ける決断が必要です。創造主は私たちの小さな決断、小さな告白に力を現して私たちがご自身に近づくのを助けてくださいます。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。・
(ヤコブ4章8節)

握っているものを手放せない人は、近づいたり遠ざかったりを繰り返し、長くとどまることができません。一方で、本気で主に立ち返ろうとする人、親密な関係にとどまろうとする人は、持てるものを惜しみなく投資します。

Ⅱ.覆いは取り除かれる

覆いとは、父なる神と私たちとの関係を阻んでいるものを象徴しています。覆いがかけられている時に、私たちは父なる神の良きご性質も、私たちのために備えられている良きご計画も見ることができなくなってしまいます。その価値が分からないので本気で求めようともしなくなってしまいます。覆いが取り除かれるのは、父なる神が私たちのためにどれほどの代価を払ってくださったのか、どれほどの関心を私たちに向けておられるのか、どんなに素晴らしい計画が用意されているのか、その片鱗に気づく時です。

Ⅲ.御霊は私たちを自由にする

聖霊だけが私たちを自由にすることのできるお方です。しかし聖霊は私たちが手放さないものを無理に取り上げることはなさいません。また、暗がりから出て来ようとしない私たちを無理に引っ張りだすこともなさいません。聖霊は私たちの同意を得た時に初めてご自身の力を現わし私たちを自由にしてくださるのです。

Ⅳ.私たちは主の栄光を現すようになる

主に立ち返り、覆いが取り除かれ、聖霊によって自由にされたときに、はじめて私たちは父なる神との親密な関係の中に留まることができるようになります。父なる神との交わり、神の家族との交わりを楽しみ、それを最優先したいと願うようになります。当然、大切にしているその関係を傷つけるものから離れるようになります。そのように変えられて行くときに、主の栄光、主のすばらしさが私たちを通して現わされるのです。

Ⅴ.私たちは主と同じかたちに変えられていく

私たちが変えられるのは、私たち自身の努力によるのではありません。また、なにか劇的な方法によって一瞬にして完成されるのでもありません。キリストによって新しいいのちを与えられた私たちは、聖霊の働きによって変えられ続けていくのです。もし、私たちが心から主に立ち返り、聖霊によって自由にされ、覆いを取り除かれ、主の栄光を現す者と造りかえられるならば・・・。私たちが心から同意して、恵みに満ちた方に自分自身を差し出すのであるならば・・・。神にはそれがおできになるのです。