イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2019年1月20日日曜日

召しに応える


Ⅰ.キリストのからだの一部分として、その召しに応えます。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)

私たち一人ひとりは、また地域教会は一つのキリストのからだにつながれていなければなりません。神の国の働きを進めていく中でお互いを補完し合う関係に置かれています。地域教会が健全であるためには、ほかの地域教会やグループと親密な関係を築いていくことが不可欠です。同様に教会のリーダーも他のリーダーたちとの信頼関係と築いていくことが大切です。グレイスハウスは今後もDNAの近い教会、宣教グループ、リーダーたちとの連携を深めて、宣教の働きを進めていきます。
Ⅱ.キリストの弟子(次世代)を育て、ともに働きます 。

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。(Ⅱコリント1:24)

次世代へのバトンタッチを意識した弟子作りを進めていきたいと考えています。パウロは教会にあてた手紙の中で、ある人々を同労者(協力者)ということばを使って紹介しています。パウロが次世代とともに働きながら弟子作りをしていたことの証しであると思います。主イエスご自身も三年半という短期間の間に同様の方法で弟子作りをされました。いっしょに過ごし、時間を共有し、関係を築き、ともに働くことが弟子作りの土台です。

Ⅲ.小さな交わりを通して関係を築き、ともに成長します。 

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)

プログラムやイベントよりも、スモール・グループやミニ・チャーチを通して関係を築いていくことを優先します。日曜日だけでなく、ウィークデイにも時間を共有できるように励まします。

Ⅳ.地域に仕え、生活を通してキリストを証しします。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。(マタイ5:13~14)

地域の必要に目を向けて祈り、地域の人々との関わりを広げ、良い隣人となり、信頼関係を築き、生活を通して福音を証しできるようにメンバーを励ましていきます。地域に根差し地域に仕える教会でありたいと願います。人々を教会に連れて来て教会のメンバーにすることが宣教ではありません。地域の中に種を撒き、神の国を広げていくことが宣教です。ミニ・チャーチはその具体的な方法の一つです。

Ⅴ.神の国のために豊かにささげる教会となります。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(Ⅱコリント9:7)

教会によってさまざまな考え方がありますが、グレイスハウスの献金はすべて自由意志による献金です。また特別な場合(希望者による特定の目的のための定期的な献金など)を除いてすべて匿名でささげられています。神さまのめぐみに応えたい、神の働きを支えたいと願う人は、義務的にささげる人、また見返りを求めて(ご利益的に)ささげる人よりも豊かにささげると思うからです。私たちはキリストの弟子を育て送り出す教会、新しい教会を生み建て上げる教会、そしてそのために惜しみなくささげる教会でありたいと願っています。

2019年1月13日日曜日

自分を変えていただきなさい


◆ローマ人への手紙12章1節~節(新改訳聖書2017)
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげものとして献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

Ⅰ.聖なる生きたささげもの

「あなたがたのからだを・・・献げなさい。」と書かれていますが、自分自身を(からだだけでなく心も)そっくり献げなさいという意味です。部分的に献げられたものを聖書は聖いとはみなしません。全体を献げてはじめて「聖なる生きたささげもの」とみなされるのです。

主イエスを信じて神の子とされているなら、私たちの所有権はすでに神のものとされています。私たちは「自分は自分のものだ。」と錯覚して生きていないでしょうか?「自分のいのちを自分の望むまま間に使って生きる人生」と「神に与えられたいのちを神の作品として生きる人生」とでは天と地ほどの違いがあります。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(コリント人第一の手紙6章20節)

Ⅱ.心を新たにする 

もしこの箇所を「神に受け入れられるように、また完全になるために、一念発起して自分を変えなさい。」と読み取ったとしたらどうでしょうか。その要求に応えることのできる人はだれもいないと思います。幸い、聖書はそのようなことを私たちに要求してはいません。私たちは自分で自分を造り変えることはできないからです。私たちを造り変えることのできるお方は私たちを造られた神様だけです。ここで教えているのは、「キリストを通して新しいいのち(アイデンティティ)が与えられているのだから、それにふさわしい考え方をしなさい。そうすれば、神があなたを造り変え(続け)て、みこころにそった生き方ができるように助けてくださる。」ということだと思います。私たちは神の子とされているばかりでなく、次のようなアイデンティティも与えられていることを忘れてはなりません。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロ手紙第一2章9節)

「心を新たにしなさい」とは、私たちがそのような存在であることに気づきなさい、自覚しなさいという呼びかけです。自分の決意や意思の力によってということではありません。古い心のままでいること(自分を手放せないこと)は古いアイデンティティの中に相変わらず生き続けていることを意味しています。自分がキリストにあってどのような存在であるかを自覚して、それにふさわしく生きようとする時に聖霊が助けてくださるのです。

Ⅲ.自分を変えていただきなさい。

ここで「変える」と翻訳されている言葉はギリシャ語の「メタモルフォー」です。見分けがつかないほど姿変わりする様子を表した言葉です。英語のメタモルフォシス(変態)の語源となっている言葉でもあります。昆虫の成長過程で(ヤゴがトンボになるように)まったく形態が変わってしまう変化を表す言葉です。聖書は神の民(教会)がやがて、すべての束縛から解かれて、神の望まれる完全な姿へと変えられる日が来ると約束しています。ここでは、私たちがこの地上に生かされている間も完成に向かって変えられ続けていくその変化について教えています。その変化は私たちを造り変えたいと願っておられる父なる神が聖霊を通して私たちのうちの起こされる変化です。ただし、その変化が起こるのは、私たちが「聖なる生きたささげもの」として自分自身をささげるときです。

しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
主は御霊です。そして、主の御霊のおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント人への手紙第二3章16節~18節)

※メタモルフォーを「トランスフォーム」と翻訳している複数の英語の聖書があります。
※メタモルフォーは変貌山で主イエスが姿変わりする場面でも使われています。(マルコの福音書9章2節)

2019年1月6日日曜日

主と同じかたちに


一年の終わりに、新しい年の指針となる聖句を求めてお祈りします。その年その年で、教会としてのフォーカス、(目標や課題など焦点とすべきこと)は変わってきます。しかし、父なる神の永遠の視点から見た時には私たち教会に対する一貫して変わらないフォーカスがあります。それは創造主である神がご自身の願う姿(かたち)へ私たちを造りかえることです。

私たちがどんなに素晴らしく見える目標や課題をもって祈っていたとしても、私たちを造りかえるという創造主の究極の目的から外れているならば、本当の意味で実を結ぶことはできません。私たちが造り変えられていく上でインスタントな答えや解決はありません。日々、キリストのことばに留まって生きるかどうかの私たちの選択にかかっているからです。カギとなる聖句からこのことを分かち合いたいと思います。

しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
主は御霊です。そして、主の御霊のおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント人への手紙第二3章16節~18節)

Ⅰ.人が主に立ち返るなら

私たちの意識がどこにあるか、私たちが何に目を向けているかが問題です。私たちは何を最優先して生きているでしょうか。「主に立ち返る」ためには、優先順位を変えることが求められます。私たちの心(意識)を釘付けにしているものから目を離して、私たちを招いておられる主に目を向ける決断が必要です。創造主は私たちの小さな決断、小さな告白に力を現して私たちがご自身に近づくのを助けてくださいます。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。・
(ヤコブ4章8節)

握っているものを手放せない人は、近づいたり遠ざかったりを繰り返し、長くとどまることができません。一方で、本気で主に立ち返ろうとする人、親密な関係にとどまろうとする人は、持てるものを惜しみなく投資します。

Ⅱ.覆いは取り除かれる

覆いとは、父なる神と私たちとの関係を阻んでいるものを象徴しています。覆いがかけられている時に、私たちは父なる神の良きご性質も、私たちのために備えられている良きご計画も見ることができなくなってしまいます。その価値が分からないので本気で求めようともしなくなってしまいます。覆いが取り除かれるのは、父なる神が私たちのためにどれほどの代価を払ってくださったのか、どれほどの関心を私たちに向けておられるのか、どんなに素晴らしい計画が用意されているのか、その片鱗に気づく時です。

Ⅲ.御霊は私たちを自由にする

聖霊だけが私たちを自由にすることのできるお方です。しかし聖霊は私たちが手放さないものを無理に取り上げることはなさいません。また、暗がりから出て来ようとしない私たちを無理に引っ張りだすこともなさいません。聖霊は私たちの同意を得た時に初めてご自身の力を現わし私たちを自由にしてくださるのです。

Ⅳ.私たちは主の栄光を現すようになる

主に立ち返り、覆いが取り除かれ、聖霊によって自由にされたときに、はじめて私たちは父なる神との親密な関係の中に留まることができるようになります。父なる神との交わり、神の家族との交わりを楽しみ、それを最優先したいと願うようになります。当然、大切にしているその関係を傷つけるものから離れるようになります。そのように変えられて行くときに、主の栄光、主のすばらしさが私たちを通して現わされるのです。

Ⅴ.私たちは主と同じかたちに変えられていく

私たちが変えられるのは、私たち自身の努力によるのではありません。また、なにか劇的な方法によって一瞬にして完成されるのでもありません。キリストによって新しいいのちを与えられた私たちは、聖霊の働きによって変えられ続けていくのです。もし、私たちが心から主に立ち返り、聖霊によって自由にされ、覆いを取り除かれ、主の栄光を現す者と造りかえられるならば・・・。私たちが心から同意して、恵みに満ちた方に自分自身を差し出すのであるならば・・・。神にはそれがおできになるのです。