2018年12月9日日曜日

弟子としなさい


イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(
マタイの福音書28章18節~20節)
         
前回、前々回のメッセージで、キリストにある私たちのアイデンティティについて触れましたが、今日も引き続いて、私たちのもう一つの大切なアイデンティティ「キリストの弟子」であることについて聖書から学びたいと思います。また、その中で、私たちのグレイスハウスの近況、私たちが大切にしている価値観や教会のあり方についても分かち合いたいと思います。
                                       
Ⅰ.キリストの弟子として生きる教会

教会(私たち)はキリスト招かれ、弟子となるように召されています。

新約聖書の原語ギリシャ語では、弟子を表す言葉として、学ぶ者を意味する「マテーテース」が使われています。キリストの弟子となることを願うのであるなら、私たちはキリストに聞く者、キリストから学ぶ者、キリストに従う者とならなければなりません。キリストを主として受け入れた時に私たちは恵みによって、神の子どもとされる特権が与えられますが、それは弟子としての歩みが始まる第一歩でもあります。私たちにはその両方のアイデンティティが与えられているのです。天の父を「お父さん」と呼べる神の子としてのアイデンティティは、キリストを主として信じる者に与えられている決して変わることのない永遠のアイデンティティです。同時に、私たちはこの地上で、弟子として主であるキリストに従って、その働きを担って行く召しと責任が与えられています。キリストの召しに応えて生きる人生には、確かに厳しさやさまざまなチャレンジが伴いますが、それらに勝る喜びがあることを聖書は証しています。信じて従う者に神様は力を与えてくださるのです。その力とは、主にある喜びと聖霊の満たしです。

「 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(使徒の働き13章52節)

Ⅱ.キリストから遣わされ教会

教会(私たち)は失われた人を探して救いに導くためにこの世界に遣わされています。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19章10節)

主イエスは、「失われた人を捜して救うために来たのです。」と言われました。聖書は、キリストのからだである教会も同じ使命を託されてこの地上に置かれている(遣わされている)と教えています。もし、そうであるならば、「私たちが生かされているのは、失われた人を探してキリストに導くためです。」「教会がこの世界に遣わされているのは、失われた人をキリストに導くためです。」と言わなければなりません。

私たちは、教会の外に目を向けているでしょうか?私たちの住む町に、またそこに住む人々に関心を払っているでしょうか?主イエスのように失われた人を探しているでしょうか?私を遣わしてくださいと祈っているでしょうか?

Ⅲ.キリストの弟子を育て送り出す教会

教会(私たち)はキリストの弟子を育てこの世界に送り出すために生かされています。

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネの福音書20章21節)

「教会を安心できる場所にしたい。」というのは、教会が始まった時から、私のまた皆さんの願いであったと思います。グレイスハウスがそのような教会になっているなら、幸いだと思います。でも、同時に教会は弟子たちを育てて送り出す場所でなければなりません。グレイスハウスが関係を持っているグループ、教会、宣教団体、またリーダーたちは、みなこの意識を持っています。そのような人々と関係を築いていくことが、これからの私たちにとって、また次の世代にとって、とても大切だと思います。

今まで、良い友人たちに恵まれてきたことを神様に感謝しています。これらの優れたしかし謙虚なリーダーたちとの関係によって、たくさんの励ましを受け、たくさんのことを教えられてきました。また、育てられてきたのだと思います。メンターのような年配の友人たち、同年代の友人たち、また私よりも若い友人たちもいますが、たえず彼らから学びたいと思っています。友人としてお付き合いしていても、彼らに対して「生徒」のような気持ちを失いたくないと思っています。学ぶ姿勢があって初めて、人々の中に自分よりもすぐれたものを見つけることができ、そこから吸収することができるからです。

話すことよりも聴くこと、教えることよりも学ぶことの方がはるかに大切です。キリストの弟子として生きることを望むのであるならば、まず聴く者となり、学ぶ者となることです。