イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2018年12月30日日曜日

神の国に生きていますか?


Ⅰ.大切なテーマ

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(使徒の働き1章3節)

主イエスが、天に帰られる前に一番大切なこととして語ったテーマは「神の国」でした。想像してみてください。40日間、同じで主題でメッセージを聞かされたとしたら。みなさんはどう反応するでしょうか?

復活された主イエスが改めて弟子たちに「神の国」について教えられたのは、これから宣教の働きに進んで行く弟子たちにとって、それが必要不可欠であったからです。この時の弟子たちは「神の国」を充分理解しているとはとても言えない状態でした。

Ⅱ.神の国とは?

メッセージの中で何度も語ってきたことですが、もう一度質問させてください。「神の国」とは何でしょうか?そうです。「神の国」とは「神のご支配」のことです。「神の国はどこにあるのか?」と問われるならば、「王であるキリストのご支配されるところ。」がその答えとなります。では、もう一つ質問させてください。私は、あなたは「神の国」に生きているでしょうか?主イエスは、四十日の間、弟子たちに「神の国」すなわち「王であるキリストのご支配」の中に生きることの大切さとその意味について教えられたのです。

主イエスが公生涯に入られてから、十字架にかかられるまで語られていた福音のテーマも「神の国」でした。有名な個所を一つだけあげていっしょに考えたいと思います。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイの福音書6章33節)

Ⅲ.神の義とは?

「神の国」を求めるとは「王なるキリストのご支配の中に生きる」ことを求めることです。では「神の義」とは何でしょうか?「私たちの身代わりとなって死なれ、新しいいのちを与えるためによみがえられたキリストを信じることによって無条件で赦され、神の目に義なる(正しい)者とされる」・・・というのはもちろんその通りです。でも、ここで主イエスが命じているのは、そのあとに続く積極的な生き方のことを指しているのだと思います。その積極的な生き方とは主の祈りにあるように「神のみこころ」を私たちの日常に求める生き方です。私たちが「神のみこころ」を行う者となり、私たちを通して、神がご自身のみこころをこの地上に成し遂げる、そのように生きることです。もう一度質問させてください。そういった意味で、私は、あなたは神の国に生き、神のみこころを求め、それを行う者となりたいと願っているでしょうか?

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイの福音書6章10節)

Ⅳ.神の国に現わされる力

私たちは私たちの置かれている状況の中に、神の力が現されるように願いまた祈ると思います。しかし、「神の国」と「神の義」を真剣に求めているかが問題です。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とは「キリストのご支配のもとに生きることを願い、神のみこころを求め、それを行う者として生きる選択をすること」です。「第一に求めなさい。」とはそれを最優先していきなさいという命令です。私たちの王は独裁者ではありません。恵みと愛をもって私たちとともに神の国を治めたいと願っておられるのです。私たちがその願いを共有するときに、そこに神はご自身の全能の力を現してくださるのです。

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ人への手紙1章19節)

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(第二歴代誌16章9節)

2018年12月23日日曜日

この方こそキリストです


◆ルカの福音書2章1節~20節
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行っ彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

イエス・キリストは神様がすべての人にお与えになった、また私たち一人ひとりにお与えになった最高のプレゼントです。この方のうちにすべての祝福が詰まっていると聖書は教えています。壊れた私たちに対する癒しと回復の約束、神様とのうるわしい交わり、豊かな赦しと恵み、そしていのち・・・。神のひとり子は私たちのために生まれ、十字架の上でご自身を犠牲にして罪の束縛から解放し、それだけではなくすべての祝福を受ける特権を与えてくださいました。このことを覚えることに、クリスマスの本当の意味があると思います。

◆ヨハネの福音書1章16節
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

2018年12月16日日曜日

良き牧者の声


「救い主は、私たちと語り合うためにこの地上に来てくださった。」それが今日のメッセージです。

◆ヨハネの福音書10章1節~11節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

Ⅰ.羊には牧者の声を聞き分ける能力がある

家畜である羊は外敵から身を守るすべを持たない無力な動物ですが、ただ一つすぐれた能力が与えられています。それは自分の飼い主である牧者の声を聞き分ける能力です。神の民である私たちは、良き羊飼いである主イエスの羊です。主イエスの羊であるならば、主イエスの声を聞くことができると聖書は教えています。それをそのまま受け取るべきではないでしょうか。

祈ること、聖書を読むことが大切であるのはもちろんです。しかし、私たちは、そこにどれほど注意を向け、そこからどれほど聞き取ろうとしているでしょうか。祈りを通して、また聖書のみことばを通して良き牧者の声を聞き、そしてそれだけでなく毎日の生活のすべての場面で、良き牧者である主イエスの声を聞きながら歩むこと、その習慣を身に着けることが大切です。

◆ヨハネの福音書1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

主イエスがこの地上に来てくださった、生まれてくださったのは、神の恵みのことばを私たちに伝えるためです。神の子とされた者たちには、遠慮なく父の名を呼べる特権だけでなく、父の声を聞くことのできる特権も与えてくださっているのです。そうでなければ特権とは言えないはずです。最高に良き方である天の父に呼びかけ、なんでも訴え、同時に、今私たちに語りかけている恵みに満ちたメッセージを聞き取ることができるからこそ、天の父との親しい交わりの中に生きることができるのです。そう約束されているわけですから、そのまま受け取るべきではないでしょうか。それが、豊かないのちを受け取って、本当の意味で豊かに生かされることの秘訣です。

たしかに私たちの思いの中では、いろいろな雑音が響いています。また、深く根を張った否定的な思いに占領されているかもしれません。そのため神のことばをそのまま受け止めることがとても困難に思えるのです。しかし、聖書は単純に、羊は牧者の声を知っている、その声を聞き分ける、その声について行くことができると、なぜならそれが羊にはじめから備わっている能力(本能)だからだと教えているのです。その真理を選び取った時に、少しずつですが、すべてが変わり始めます。
Ⅱ.単純な原則

静まって祈るために、たまに断食しても良いですが、それよりも日常の中で、朝起きた時から、夜布団に入って眠りにつくまで、良き羊飼いである主イエスとの対話の中に生きること、その習慣をつけることが重要です。習慣にするための、いくつかのステップがあります。まず、1.羊である私には良き牧者である主イエスの声を聞く能力があることを認める。次に、2.良き牧者の声に注意を向け、耳を傾けて生活する。3.そして、良き牧者の声の語りかけに従う(聞いたことを実行する。)単純に言えば、そのように生きることがキリストの平安とそれに伴う祝福の中に生きる秘訣だと聖書は教えています。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ人への手紙3書15節)

問題は、先にも述べましたが、神の子どもとされている私たちの心が、キリストの平和以外のもので支配されていることにあります。長い間、私たちのこころを支配してきた要塞のような否定的な思いを、私たちが自分の力で取り除くことはできません。解決は良き羊飼いである主イエスの声に耳を傾け、そこに意識を向けるところから始まります。主イエスのことばには私たちを束縛から解放し、自由にする力といのちが宿っているからです。

Ⅲ.豊かないのちを受け取るために

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネの福音書10章10節)

盗人とはもちろん悪魔のことですが、私たちから何を盗むというのでしょうか。悪魔が盗もうとしているものは、良き牧者である主イエスが私たちに与えようとされている「豊かな祝福に満ちた約束」、「神のいのちにあふれた人生で」す。「羊飼いの声を聞くことができないと信じ込ませれば、その声に注意を向けないようにさせれば、羊は豊かないのちを受け取ることができなくなる。」そのことを悪魔はよく知っているのです。

ご利益と祝福は似て非なるものです。人間がご利益を受けるとき、だれが自分にそのご利益を与えたのかほとんど関心がありません。そこに親密な関係を見つけることはできません。一方、聖書の教える祝福は創造主との親密な関係の中にしか見出すことはできません。また、聖書の教える祝福は、それを受け取る人自身がほかの人々への祝福となるという点でも違っています。良き牧者である主イエスを通して、天の父がどんなに恵みに満ちた方であるかを知り、その親しい交わりの中に生きるときに、私たちは神のいのちに満たされ、周囲にいる多くの人々の祝福になることができるのです。それは良き牧者である主イエスの声を聞いてついて行く人々だけに約束されている豊かな祝福です。

小さなところから始めていきましょう。良き牧者である主イエスは、今日もあなたに何かを語りかけているはずです。あなたを通して、たくさんの人たちにご自身の恵みを伝えたいのです。あなたを通して渇いた人々を癒し、あなたを通して囚われた人々を開放し、あなたを通して人々を豊かに祝福し、そこに神の国を広げたいと願っておられるのです。静かに語りかけておられる良き牧者の声に耳を傾け、あなたに何を語りかけておられるのか聞いてみませんか。

2018年12月9日日曜日

弟子としなさい


イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(
マタイの福音書28章18節~20節)
         
前回、前々回のメッセージで、キリストにある私たちのアイデンティティについて触れましたが、今日も引き続いて、私たちのもう一つの大切なアイデンティティ「キリストの弟子」であることについて聖書から学びたいと思います。また、その中で、私たちのグレイスハウスの近況、私たちが大切にしている価値観や教会のあり方についても分かち合いたいと思います。
                                       
Ⅰ.キリストの弟子として生きる教会

教会(私たち)はキリスト招かれ、弟子となるように召されています。

新約聖書の原語ギリシャ語では、弟子を表す言葉として、学ぶ者を意味する「マテーテース」が使われています。キリストの弟子となることを願うのであるなら、私たちはキリストに聞く者、キリストから学ぶ者、キリストに従う者とならなければなりません。キリストを主として受け入れた時に私たちは恵みによって、神の子どもとされる特権が与えられますが、それは弟子としての歩みが始まる第一歩でもあります。私たちにはその両方のアイデンティティが与えられているのです。天の父を「お父さん」と呼べる神の子としてのアイデンティティは、キリストを主として信じる者に与えられている決して変わることのない永遠のアイデンティティです。同時に、私たちはこの地上で、弟子として主であるキリストに従って、その働きを担って行く召しと責任が与えられています。キリストの召しに応えて生きる人生には、確かに厳しさやさまざまなチャレンジが伴いますが、それらに勝る喜びがあることを聖書は証しています。信じて従う者に神様は力を与えてくださるのです。その力とは、主にある喜びと聖霊の満たしです。

「 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(使徒の働き13章52節)

Ⅱ.キリストから遣わされ教会

教会(私たち)は失われた人を探して救いに導くためにこの世界に遣わされています。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19章10節)

主イエスは、「失われた人を捜して救うために来たのです。」と言われました。聖書は、キリストのからだである教会も同じ使命を託されてこの地上に置かれている(遣わされている)と教えています。もし、そうであるならば、「私たちが生かされているのは、失われた人を探してキリストに導くためです。」「教会がこの世界に遣わされているのは、失われた人をキリストに導くためです。」と言わなければなりません。

私たちは、教会の外に目を向けているでしょうか?私たちの住む町に、またそこに住む人々に関心を払っているでしょうか?主イエスのように失われた人を探しているでしょうか?私を遣わしてくださいと祈っているでしょうか?

Ⅲ.キリストの弟子を育て送り出す教会

教会(私たち)はキリストの弟子を育てこの世界に送り出すために生かされています。

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネの福音書20章21節)

「教会を安心できる場所にしたい。」というのは、教会が始まった時から、私のまた皆さんの願いであったと思います。グレイスハウスがそのような教会になっているなら、幸いだと思います。でも、同時に教会は弟子たちを育てて送り出す場所でなければなりません。グレイスハウスが関係を持っているグループ、教会、宣教団体、またリーダーたちは、みなこの意識を持っています。そのような人々と関係を築いていくことが、これからの私たちにとって、また次の世代にとって、とても大切だと思います。

今まで、良い友人たちに恵まれてきたことを神様に感謝しています。これらの優れたしかし謙虚なリーダーたちとの関係によって、たくさんの励ましを受け、たくさんのことを教えられてきました。また、育てられてきたのだと思います。メンターのような年配の友人たち、同年代の友人たち、また私よりも若い友人たちもいますが、たえず彼らから学びたいと思っています。友人としてお付き合いしていても、彼らに対して「生徒」のような気持ちを失いたくないと思っています。学ぶ姿勢があって初めて、人々の中に自分よりもすぐれたものを見つけることができ、そこから吸収することができるからです。

話すことよりも聴くこと、教えることよりも学ぶことの方がはるかに大切です。キリストの弟子として生きることを望むのであるならば、まず聴く者となり、学ぶ者となることです。

2018年12月2日日曜日

新しい人


前回は、コロサイ人への手紙3章(12節~17節)からキリストの平和についていっしょに学びました。その中で、12節にの「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」を引用して、キリストにある私たちが、神の目にどのような存在であるかについて少し触れました。今日は同じ3章の9節、10節から、どのようにしたら「私たちに与えられているキリストにあるアイデンティティ」の中に生きられるのかもう少し踏み込んで考えたいと思います。

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
(コロサイ人への手紙3章9節~10節)

エペソ人への手紙4章(22節~24節)では、「脱ぎ捨てるべき」、「新しい人を身に着るべき」と命令文で書かれていますが、コロサイ人への手紙では「、古い人を脱ぎ捨てたこと」、「新しい人をきたこと」はもうすでに起こった恵みの事実として書かれています。「キリストにある新しいアイデンティティが、与えられているのだから、それにふさわしく生きなさい。」というのがパウロの私たちに対するメッセージです。

Ⅰ.「古い人を脱ぎ捨てた」「新しい人を着た」

コロサイ人への手紙では、一度きりの繰り返されない行為として起こった事実として、「古い人を脱ぎ捨てた」「新しい人を着た」と書かれています。キリストのあがないによって、私たちのアイデンティティはまったく変えられているのです。聖句を二つだけ引用したいと思います。(※アイデンティティ=自分がどのような存在か)

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
(ヨハネの福音書1章12節)

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
(コロサイ人への手紙1章13節)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙第二5章17節)

神の一方的な恵みによってキリストを信じる者たちに与えられたアイデンティティについて教えている箇所が、ほかにも多くありますが、聖書を開いてぜひ探してみてください。「人間は自分で自分を根本的に変えることはできない。自分を救うことができない。」というのが聖書の教えです。もし、できるのならば、キリストは私たちのために十字架にかからなくてもよかったはずです。あなたが、もしキリストを救い主として信じているのならば、それまでの古いあなたはキリストとともに十字架にかけられて死んでいる、そして今のあなたには、復活のキリストにあって新しいいのちが与えられている、それが聖書のメッセージです。

Ⅱ.「古い人を脱ぎ捨てなさい」「新しい人を着なさい」

一方で先に述べたように、エペソ人への手紙では、「古い人を脱ぎ捨てなさい」「新しい人を着なさい」と命令文で、弟子たちに呼びかけています。

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
(エペソ人への手紙4章22節~24節)

キリストを主として信じる者たちのアイデンティティ、またその立場は救いを通してまったく変えられているのです。暗やみの圧政から、恵み深いキリストのご支配の中に、罪の奴隷から、神のしもべに、神の子どもに、・・・・・数え上げたらきりがありません。「古い人」とは、ほろびの運命にしばられ罪の奴隷であったかつての私たちの姿です。「新しい人」とは、天にあるすべての祝福を受け継ぐ神の相続者として召されている今の私たちの立場です。そのようなすばらしい立場、アイデンティティがキリストを信じるすべての者に、すでに与えられているのですが、私たちはそれを握って生きているでしょうか?パウロはエペソの弟子たちに、また私たちに、「神が代価を払って与えてくださった新しいアイデンティティの中に日々自覚をもって生きなさい。」と呼びかけているのです。「古い人を脱ぎ捨て」「新しい人を着る」、それはすでに恵みによって、私たちの身に起こったことなのですが、その真理を選び取って生きるかどうかは私たちの選択にかかっています。信じるとは、みことばで自分の思いを満たし、そのみことばを告白し、そのみことばに生きることです。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
(ペテロの手紙第一2章9節)