2018年11月4日日曜日

真理はあなたがたを自由にする


私たちは、ほんとうの意味で私たちを自由にする神の真理と神の恵みを必要としています。

イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
(ヨハネの福音書8章31節~36節)

Ⅰ.だれでも自由になりたい

ここにいる皆さんはだれでも自由でありたいと願っておられると思います。自由の反対は束縛や奴隷状態にあることです。だれもそのようなことは望みません。どんなに快楽をもたらすものであったとしても、何かに依存している(中毒になっている)としたら、そのような状態は私たちにとって自由であるとは言えません。中毒のようなものでなかったとしても、恐れや罪責感、赦せない心、責任転嫁や正当化、それらも私たちの心から自由を奪ってしまいます。

主イエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と言われました。死からよみがえられ、この世界を王として収めておられる主イエスは、私たちを、すべての束縛から開放して、ほんとうの自由を与えてくださると語っておられます。

Ⅱ.罪の奴隷

主イエスはこう語っておられます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」これを聞いたユダヤ人たちは「私たちだれの奴隷になったこともない。(自由だ。)」と言って反論します。主イエスが与えたいと願っておられた「自由」は、彼らの主張していた自由とはまったく性質のことなる「自由」でした。

神さまとの関係以上に他のものを優先して求める人間の動機に「罪の本質」が隠れています。

主イエスは、すべての人が罪の奴隷であると語っています。ただ悪い行いをすることだけが罪ではありません。むしろ、悪い行いをさせようとする「私たちのこころに潜んでいる力」に「罪の本質」があります。罪人であるから罪を犯すのです。

Ⅲ.罪が働く二つの方法

罪は二つの方法で人間を奴隷にします。解放(自由)もまた二つの方法でもたらされます。まず、罪は私たちの動機や願望に働きかけます。神との関係以上に、私たちが何か他のものを優先して求めているならば、それは罪であると聖書は教えています。

次に、罪は奴隷状態となった私たちを最終的に滅びに導きます。何かが介入しない限り、その運命は変わりません。罪は私たちの人生を支配し、やがて滅びをもたらします。キリストが来られたのは、呪われた運命にある人間をその束縛から自由にするためです。

Ⅳ.罪の支配と罪のもたらす滅びからの解放

主イエスだけが、罪の支配と罪のもたらす滅びから、その呪われた運命から、私たちを自由にしてくださることのできるお方です。十字架の上でのろわれた者となり、罪のないご自身の血をもってすべての人のために代価を支払い、私たちを買い取ってくださったのです。

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
(ガラテヤ人への手紙3章13節)

私たちの身代わりとなられた主イエスだけが、私たちを「罪の支配と罪のもたらす滅び」から開放し、ほんとうに自由にすることができるのです。

Ⅴ.自由を理解する

私たちが自由を味わうためには、次の4つの要素が必要です。
1.願いを持っていること。
2.願いを実現する機会が与えられること。
3.願いを実現する能力があること。
4.願いを実現したあとに幸せでいられること。

スカイダイビングを例に取って考えてみましょう。パイロットをしている友人の誘いで、あなたが長い間夢見ていたスカイダイビングができる機会がとうとう与えられました。ところが飛行場に向かう途中で、車が故障して動かなくなってしまい、計画をキャンセルしなければならなくなってしまいました。どんなに願っていても、機会がなければ自由を味合うことはできません。

では、事故に合わずに無事、時間通り空港に到着したとします。よろこんで飛行機に乗り込んだのですが、今まで、まったくスカイダイビングのトレーニングを受けていなかったことがわかり、降ろされてしまいます。機会があっても、能力がなければ自由を味合うことはできません。

では、夢を実現するために必要なトレーニングを受けてから飛行場に行ったとしましょう。パラシュートを付けて、飛行機に乗り込み、高度3000メートルまで上昇します。ドアが開いていよいよ飛び降りようと下を見た瞬間に恐怖が襲ってきて、とても飛び降りる気持ちに離れません。機会はあります。能力もあります。しかし、教官に後ろから突き落とされて、無理やりスカイダイビングをさせられているのであったら、それを自由であると言うことはできるでしょうか。

では、願いがあり、機会もあり、必要な能力も身に付け、何も妨げるものがなかったとします。十分にトレーニングを受けて自信もあったので、ワクワクしながら開いたドアからためらいなくジャンプしたとしましょう。だんだん近づいてくる地上の景色を眺めながら、大空を飛ぶ鳥のような気持ちになって、自由を満喫します。ただし、あなたの身につけているパラシュートに欠陥があって、開かないことに気づいていないのです。確実な死がまっているこの状態を自由と言うことができるでしょうか。

Ⅵ.キリストだけが私たちを自由にする

私たちにとってのパラシュートは救い主キリストです。私たちを死とほろびに向かって引っ張る罪の強力な力はキリストの死と復活によって打ち砕かれているのです。自分の力では逃れることのできないほろびの運命から、キリストは十字架の死によって私たちを開放してくださいました。キリストによって、救われた私たちには新しい使命と新しい願いが与えられています。「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

この世界が与える自由は、つかの間の喜びを与えてくれるかもしれませんが、霧のようにあとかたもなく消えてしまいます。しかし、主イエスに信頼し、主イエスをなによりも尊い宝とする者たちは、罪の力から開放されて鷲のように大空を舞い、永遠の喜びと自由の中に生きることができるのです。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)