イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2018年11月11日日曜日

創造的な役割


エペソ人への手紙の中から、私たち(教会・キリストのからだに属する者たち)がどのような存在であり、何のために召されているのか、また委ねられた働きがどのようなものであり、それ成し遂げる力がどこから来るのか、ともに学びたいと思います。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
(エペソ人への手紙1章4節~5節)

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ人への手紙1章17節~19節)

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ人への手紙2章10節)

Ⅰ.揺るぎない選びと召し

「この世界を造られた神さまが私たちを選んでくださった。神さまは私たちを決して手放さない!キリストにあって、神さまは私たちをご自身の願ううるわしい姿に造り変えてくださる。」

私たちは、キリストにあって揺るぎない選びの中に召されています。「創造主である神ご自身が私たちを創造とあがない、救いのご計画の中に生きるように造ってくださった。」それが聖書のメッセージであり、そこに私たちが生きる目的が啓示されています。イエス・キリストを通して、私たちが「神がお造りになった本来の姿、神の子としての形」に回復され、父なる神との聖い愛の関係の中に生きるようにはじめから計画されていたと聖書は教えています。私たちが創造された目的の背後には、創造主の強い意思が働いています。そして、創造主は硬い決意をもって私たちをキリストにあって完成しようと、今も、私たちのうちに働いておられるのです。神の決意を知り、心から受け止めていくことが、神が私たちにゆだねられた役割(ミッション)を果たしていくための第一歩です。私たちは何の目的もなく偶然ここに生かされているのではありません。神によって創造され、キリストのうちに選ばれ、キリストによって新しいいのちと役割(ミッション)が与えられ、その目的を果たすために、神の栄光を現すためにこの世界に遣わされているのです。

私たちは「神の選びと召し」の中に生きようとしているでしょうか?

Ⅱ.神の作品としてのアイデンティティと創造的な役割

「神さまは私たちを素晴らしい作品として、愛情を込めて造ってくださった。救いの計画の中にあって、私たちには素晴らしい役割が与えられている。」

私たちは、キリストにあって神の作品としてのアイデンティティと創造的な役割(ミッション)が与えられています。私たちは「神の作品」であって、「神の製品」ではありません。機会的に大量生産された「モノ」ではなく、一つ一つ愛情を込めて丹念に注意深く造られた存在なのです。存在の目的が与えられていると同時に、愛する対象として造られた存在なのです。「神が、キリストのいのちと引き換えに、私たちを買い取ってくださった。」と、聖書は教えています。私たちは神の目にそれほど高価で尊い存在(イザヤ書43章4節)なのです。ものの価値は、それを手に入れたいと願っている人がどれほどの代価を支払うのかによって決められます。

神が私たちにゆだねられた役割(ミッション)を果たしていくためには、私たちがどのような存在であるかを知らなければなりません。「神は・・・その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」とありますが、神が私たちにゆだねられている役割について語っています。花瓶が花を生けるために、コーヒーカップがコーヒーを飲むために造られているのと同じように、私たちが神の作品として造られているのにも目的と役割があるのです。私たちが創造された目的(神の選びとご意思)を受け止め、私たちの存在価値(アイデンティティ)と神に与えられた役割(ミッション)を知り、そこに生きるときに、私たちはほんとうの意味での充足感と幸福を味わうことができるのです。私たちにゆだねられている役割は、キリストを通して、罪の中に死んだこの世界に神のいのちを広げ、そこにうるわしい神の栄光を現す創造的な働きです。

私たちは、キリストが私たちのために支払われた代価の意味を忘れていないでしょうか?キリストにある私たちの価値を知り、与えられた役割を果たしたいと願っているでしょうか?

Ⅲ.私たちを通して働く神のすぐれた力

「神さまの願いを受け止めて、それを実行しようとするときに、神さまは全能の力を働かせて、私たちがそれを成し遂げるのを助けてくださる。」

神のご計画を実現するために、神ご自身が私たちを通して力強く働いてくださいます。神のご計画とは、キリストのからだである教会(私たち)を整えやがて完成させること、そしてその教会(私たち)を通して、この地上に神の国を広げていくことです。神の力は教会の中に働いて私たちを建てあげ、また教会を通して働き、「悪い者」の支配するこの世界(Ⅰヨハネ5:19)に神の国を広げて行くのです。神の力はその二つの領域で現されます。最終的に神の国を完成させることのできるのは王なるキリストだけです。神の同労者(キリストのパートナー)として召されている私たちに求められているのは、王なるキリストに対する服従です。しかし、この服従の中に自由と解放が約束されていると聖書は教えています。なぜなら私たちの主は、義なる方、聖い方であると同時に、恵みとあわれみに満ちた方だからです。創造主である神は、硬い決意と情熱、また忍耐をもって、ご自身の永遠の救いの計画を完成しようとされているのです。私たちに、私たち一人ひとりにその役割の一端がゆだねられています。神は罪の中に埋もれていた私たちを探して選び出し、キリストの血によって私たちを買い取り、清め、ご自身のからだである教会の一部分として召し、忍耐をもって私たちを整え、建てあげ、なおかつまだ完成されていない私たちを通して神の国をこの地上に広げようとなさっているのです。私たちが自分自身を、創造主のみ手に差し出していくときに、神は私たちの想像を超えた方法で私たちを用いてくださいます。

「神が、神を信じる私たちを通して、ご自身の力を働かせ、神の計画を実現しようとされているのか」それとも、「私たちが、自分の計画を実現するために、神の力を用いようとしているのか」どちらでしょうか?
私たちを愛する全能の父を信頼し、私たち自身を神の働きの器として、主のみ手にささげていきませんか?
神は、神を信頼し、み心を求める人を通して、ご自身の力を現してくださいます。

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
(イザヤ書6章8節)

2018年11月4日日曜日

真理はあなたがたを自由にする


私たちは、ほんとうの意味で私たちを自由にする神の真理と神の恵みを必要としています。

イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
(ヨハネの福音書8章31節~36節)

Ⅰ.だれでも自由になりたい

ここにいる皆さんはだれでも自由でありたいと願っておられると思います。自由の反対は束縛や奴隷状態にあることです。だれもそのようなことは望みません。どんなに快楽をもたらすものであったとしても、何かに依存している(中毒になっている)としたら、そのような状態は私たちにとって自由であるとは言えません。中毒のようなものでなかったとしても、恐れや罪責感、赦せない心、責任転嫁や正当化、それらも私たちの心から自由を奪ってしまいます。

主イエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と言われました。死からよみがえられ、この世界を王として収めておられる主イエスは、私たちを、すべての束縛から開放して、ほんとうの自由を与えてくださると語っておられます。

Ⅱ.罪の奴隷

主イエスはこう語っておられます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」これを聞いたユダヤ人たちは「私たちだれの奴隷になったこともない。(自由だ。)」と言って反論します。主イエスが与えたいと願っておられた「自由」は、彼らの主張していた自由とはまったく性質のことなる「自由」でした。

神さまとの関係以上に他のものを優先して求める人間の動機に「罪の本質」が隠れています。

主イエスは、すべての人が罪の奴隷であると語っています。ただ悪い行いをすることだけが罪ではありません。むしろ、悪い行いをさせようとする「私たちのこころに潜んでいる力」に「罪の本質」があります。罪人であるから罪を犯すのです。

Ⅲ.罪が働く二つの方法

罪は二つの方法で人間を奴隷にします。解放(自由)もまた二つの方法でもたらされます。まず、罪は私たちの動機や願望に働きかけます。神との関係以上に、私たちが何か他のものを優先して求めているならば、それは罪であると聖書は教えています。

次に、罪は奴隷状態となった私たちを最終的に滅びに導きます。何かが介入しない限り、その運命は変わりません。罪は私たちの人生を支配し、やがて滅びをもたらします。キリストが来られたのは、呪われた運命にある人間をその束縛から自由にするためです。

Ⅳ.罪の支配と罪のもたらす滅びからの解放

主イエスだけが、罪の支配と罪のもたらす滅びから、その呪われた運命から、私たちを自由にしてくださることのできるお方です。十字架の上でのろわれた者となり、罪のないご自身の血をもってすべての人のために代価を支払い、私たちを買い取ってくださったのです。

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
(ガラテヤ人への手紙3章13節)

私たちの身代わりとなられた主イエスだけが、私たちを「罪の支配と罪のもたらす滅び」から開放し、ほんとうに自由にすることができるのです。

Ⅴ.自由を理解する

私たちが自由を味わうためには、次の4つの要素が必要です。
1.願いを持っていること。
2.願いを実現する機会が与えられること。
3.願いを実現する能力があること。
4.願いを実現したあとに幸せでいられること。

スカイダイビングを例に取って考えてみましょう。パイロットをしている友人の誘いで、あなたが長い間夢見ていたスカイダイビングができる機会がとうとう与えられました。ところが飛行場に向かう途中で、車が故障して動かなくなってしまい、計画をキャンセルしなければならなくなってしまいました。どんなに願っていても、機会がなければ自由を味合うことはできません。

では、事故に合わずに無事、時間通り空港に到着したとします。よろこんで飛行機に乗り込んだのですが、今まで、まったくスカイダイビングのトレーニングを受けていなかったことがわかり、降ろされてしまいます。機会があっても、能力がなければ自由を味合うことはできません。

では、夢を実現するために必要なトレーニングを受けてから飛行場に行ったとしましょう。パラシュートを付けて、飛行機に乗り込み、高度3000メートルまで上昇します。ドアが開いていよいよ飛び降りようと下を見た瞬間に恐怖が襲ってきて、とても飛び降りる気持ちに離れません。機会はあります。能力もあります。しかし、教官に後ろから突き落とされて、無理やりスカイダイビングをさせられているのであったら、それを自由であると言うことはできるでしょうか。

では、願いがあり、機会もあり、必要な能力も身に付け、何も妨げるものがなかったとします。十分にトレーニングを受けて自信もあったので、ワクワクしながら開いたドアからためらいなくジャンプしたとしましょう。だんだん近づいてくる地上の景色を眺めながら、大空を飛ぶ鳥のような気持ちになって、自由を満喫します。ただし、あなたの身につけているパラシュートに欠陥があって、開かないことに気づいていないのです。確実な死がまっているこの状態を自由と言うことができるでしょうか。

Ⅵ.キリストだけが私たちを自由にする

私たちにとってのパラシュートは救い主キリストです。私たちを死とほろびに向かって引っ張る罪の強力な力はキリストの死と復活によって打ち砕かれているのです。自分の力では逃れることのできないほろびの運命から、キリストは十字架の死によって私たちを開放してくださいました。キリストによって、救われた私たちには新しい使命と新しい願いが与えられています。「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

この世界が与える自由は、つかの間の喜びを与えてくれるかもしれませんが、霧のようにあとかたもなく消えてしまいます。しかし、主イエスに信頼し、主イエスをなによりも尊い宝とする者たちは、罪の力から開放されて鷲のように大空を舞い、永遠の喜びと自由の中に生きることができるのです。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)