2018年10月21日日曜日

「きよい心」と「ゆるがない霊」


神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
◇     ◇     ◇
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
◇     ◇     ◇
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51章1節~2節、10章~13章、17章)

詩篇51篇は、大きな罪を犯したダビデが神に立ち返ろうとする悔い改めの祈りです。ここから、どのようにしたら「きよい心」と「ゆるがない霊」を自分のものとすることができるか、その原則を学びましょう。

Ⅰ.ダビデの罪と回復

神はご自身の約束を成就するために、ダビデを選び、ダビデを通してイスラエル王国を確立します。しかし、最高権力者としてその全盛にあったときに、ダビデは誘惑に負けて大きな罪を犯します。忠実な部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その結果彼女は妊娠するのですが、それを隠蔽するためにウリヤを激戦地に送り出して戦死させます。これを嘆かれた神は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わして彼の犯した罪を指摘し、その重大さを自覚させ悔い改めに導きます。(第二サムエル記11章~12章)

権力を乱用し、姦淫を犯し、それを隠蔽するために殺人を犯す。そのような大きな罪を犯したにもかかわらず、ダビデは「神ご自身の心にかなう人」(Iサムエル13:14、使徒13:22)と呼ばれ、神に忠実に歩んだ偉大な指導者の一人として聖書に紹介されています。ダビデの人生は、神の赦しと恵みの深さ、真摯な悔い改めがもたらすたましいの回復がどのようなものであるかを私たちに教えてくれます。

Ⅱ.罪の自覚

犯した罪の深さを知ったダビデは、自分の救いがたい実情を正直に認め、神の恵みとあわれみに目を向けました。本当の意味での罪の自覚がないと、私たちは自分自身を自分の力で修正したり、改善したりできるものと錯覚してしまいます。ダビデのように霊的に盲目になれば、罪の自覚さえ困難になります。預言者ナタンは罪の中にいるダビデに厳しく対峙しますが、それもダビデを罪の自覚への導こうとする神のあわれみから出たことです。

主イエスは次のように言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マルコの福音書2章17節)


たしかにクリスチャンである私たちは、罪赦され救われて神の子とされているでしょう。でも、霊もこころもからだも完全に回復されているでしょうか?もう主イエスのいやしを必要としていないのでしょうか?もう罪の性質がなくなったのでしょうか?それとも、まだどこかに病んだところ、傷んだところがあり、赦されなければならない罪があるのでしょうか?主イエスはいやしを必要としている人だけをいやし、罪の自覚のある人だけを赦し、回復することがおできになるのです。

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
(詩篇51章1節~2節)

Ⅲ.「きよい心」と「ゆるがない霊」

ダビデは真摯な悔い改めを通して神に立ち返りましたが、さらに切実に求めたものがありました。それは「きよい心」と「ゆるがない霊」です。ここで「造る」と訳されている動詞は、ヘブル語の「バーラー」です。「はじめに神が、天と地を造られた」(創世記1章1節)でも使われている言葉です。「自分が失ってしまったもの、もはや自分の心に全く見いだせないものを神はお造りになることができる。」それがダビデの信仰でした。神の前に「きよい心」、誘惑にさらされても「ゆるがない霊」、どちらも人間の努力で手に入れることのできないものです。神の霊、聖霊だけが私たちのうちにお造りなることのできるものなのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
(詩篇51章10節~13節)


私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(コリント人への手紙第二3章18節)

Ⅳ.砕かれたたましい

悔い改め回復される前のダビデのたましいがそうであったように、神との親密な関係を失ったときに私たちのたましいも頑なになります。頑ななたましいは自分の実情を認めることができません。目をそむけてしまったり、自分の力で解決できるかのようにふるまったりしてしまうのです。「砕かれたたましい」とは、神の前に自分の無力と実情を認めた人だけが持っている心です。「砕かれたたましい」だけが、真の悔い改めへ、真の回復へ、私たちをあわれみに満ちた父なる神のもとへと導いてくれる案内人なのです。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51章17節)