イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2018年10月21日日曜日

「きよい心」と「ゆるがない霊」


神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
◇     ◇     ◇
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
◇     ◇     ◇
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51章1節~2節、10章~13章、17章)

詩篇51篇は、大きな罪を犯したダビデが神に立ち返ろうとする悔い改めの祈りです。ここから、どのようにしたら「きよい心」と「ゆるがない霊」を自分のものとすることができるか、その原則を学びましょう。

Ⅰ.ダビデの罪と回復

神はご自身の約束を成就するために、ダビデを選び、ダビデを通してイスラエル王国を確立します。しかし、最高権力者としてその全盛にあったときに、ダビデは誘惑に負けて大きな罪を犯します。忠実な部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その結果彼女は妊娠するのですが、それを隠蔽するためにウリヤを激戦地に送り出して戦死させます。これを嘆かれた神は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わして彼の犯した罪を指摘し、その重大さを自覚させ悔い改めに導きます。(第二サムエル記11章~12章)

権力を乱用し、姦淫を犯し、それを隠蔽するために殺人を犯す。そのような大きな罪を犯したにもかかわらず、ダビデは「神ご自身の心にかなう人」(Iサムエル13:14、使徒13:22)と呼ばれ、神に忠実に歩んだ偉大な指導者の一人として聖書に紹介されています。ダビデの人生は、神の赦しと恵みの深さ、真摯な悔い改めがもたらすたましいの回復がどのようなものであるかを私たちに教えてくれます。

Ⅱ.罪の自覚

犯した罪の深さを知ったダビデは、自分の救いがたい実情を正直に認め、神の恵みとあわれみに目を向けました。本当の意味での罪の自覚がないと、私たちは自分自身を自分の力で修正したり、改善したりできるものと錯覚してしまいます。ダビデのように霊的に盲目になれば、罪の自覚さえ困難になります。預言者ナタンは罪の中にいるダビデに厳しく対峙しますが、それもダビデを罪の自覚への導こうとする神のあわれみから出たことです。

主イエスは次のように言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マルコの福音書2章17節)


たしかにクリスチャンである私たちは、罪赦され救われて神の子とされているでしょう。でも、霊もこころもからだも完全に回復されているでしょうか?もう主イエスのいやしを必要としていないのでしょうか?もう罪の性質がなくなったのでしょうか?それとも、まだどこかに病んだところ、傷んだところがあり、赦されなければならない罪があるのでしょうか?主イエスはいやしを必要としている人だけをいやし、罪の自覚のある人だけを赦し、回復することがおできになるのです。

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
(詩篇51章1節~2節)

Ⅲ.「きよい心」と「ゆるがない霊」

ダビデは真摯な悔い改めを通して神に立ち返りましたが、さらに切実に求めたものがありました。それは「きよい心」と「ゆるがない霊」です。ここで「造る」と訳されている動詞は、ヘブル語の「バーラー」です。「はじめに神が、天と地を造られた」(創世記1章1節)でも使われている言葉です。「自分が失ってしまったもの、もはや自分の心に全く見いだせないものを神はお造りになることができる。」それがダビデの信仰でした。神の前に「きよい心」、誘惑にさらされても「ゆるがない霊」、どちらも人間の努力で手に入れることのできないものです。神の霊、聖霊だけが私たちのうちにお造りなることのできるものなのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
(詩篇51章10節~13節)


私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(コリント人への手紙第二3章18節)

Ⅳ.砕かれたたましい

悔い改め回復される前のダビデのたましいがそうであったように、神との親密な関係を失ったときに私たちのたましいも頑なになります。頑ななたましいは自分の実情を認めることができません。目をそむけてしまったり、自分の力で解決できるかのようにふるまったりしてしまうのです。「砕かれたたましい」とは、神の前に自分の無力と実情を認めた人だけが持っている心です。「砕かれたたましい」だけが、真の悔い改めへ、真の回復へ、私たちをあわれみに満ちた父なる神のもとへと導いてくれる案内人なのです。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51章17節)

2018年10月14日日曜日

収穫の働き手



ラルフ・モア先生の直弟子の一人ジョン・ホナルド先生を水曜日のスモール・グループにお招きしました。ジョン先生は、ご自身のお証しを交えて「出て行く教会」をテーマに4つのポイントでお話ししてくださいました。今日は、ジョン先生が語られた4つのポイントをもう少し掘り下げて、皆さんといっしょに学びたいと思います。


その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。
そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。
財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。
どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。
もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。
どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。
そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。
(ルカの福音書10章1節~9節)

主イエスが七十人の弟子たちを町や村へ遣わされたように、キリストの弟子とされた私たちも遣わされているのです。私たちが生活しているその場所が、神さまによって私たちが遣わされた場所です。私たちの周りにはそこで生活している人々がいます。私たちの暮らしている地域社会、学校、職場、国家。主イエスはそこが、収穫を待つ畑であると教えています。


「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」主イエスの語られたこのことばから、「収穫の働き手」について考えてみたいと思います。七十人の弟子たちも「収穫の働き手」でした。



1.神の平安を祈る



関心を向けずに、何かのため、だれかのために祈ることはできません。また、神さまに対する期待がなければ、関心を向けて祈ることはできません。さらに、神さまの願いを受け取らなければ、期待を持って祈ることはできません。



主イエスによって遣わされた七十人は、訪れる家々で平安を祈るようにと命じられます。彼らは主エスの願いを受け取り、訪れる町に関心を向け、神さまに期待して、そこに住む人々に平安がもたらされるようにと祈ったのです。神の平安には、霊的な空気を一変させる力があるのです。収穫の働き手とは祈りによってこの地上に神の平安をもたらす人たちのことです。※平安については最後の引用を参照ください。



2.交わりを持つ



主イエスは平安の子の家に留まって交わりをもつように(関係を築くように)と命じます。平安の子とは、弟子たちの祈りを、心を開いて受け止め、神の国の福音の橋渡しとなる人々のことです。私たちも、遣わされた場所で平和の子を探し、その人たちと信頼関係を築くべきです。ここでは平和の子に提供されたものを食べるように命じていますが、私たちの場合は、逆に平和の子を食事に誘ってもてなすこともあると思います。主イエスがたびたび訪問先で友となられた人々と食事を取られ時間をすごされたように、私たちにとっても「食事をともにすること」が人々との関係を築く大きな助けとなると思います。収穫の働き手とは、人々に関心を払い、関わりを持ち、関係を築くために時間をともに過ごす人たちのことです。



3.必要に答える



七十人の弟子たちは出かけていく先々で病人を癒やしました。必要を見つけて、それに答えたのです。この場合は肉体の奇跡的ないやしでしたが、自分の持っている金銭や物で人々の物質的な必要を満たす場合もあると思います。新約聖書の教会はそれを実践していました。私たちも、できることはわずかですが、いろいろなボランティア活動を通して地域の必要に応えようとしています。収穫の働き手とは自分の持てる物をもって、人々の必要に答える人たちのことです。



4.キリストを証しする



主イエスは弟子たちに「神の国」について証しするように命じました。神の国とは王なるキリストのご支配のことです。キリストとともに神の国、すなわち神のご支配(あるいは救い)が地上にもたらされたのです。キリストとともにもたらされた神の国(救い)は、将来の完成に向けて、教会とともに、キリストを証しする神の民とともに広がり続けています。収穫の働き手とは収穫の畑に進んで行き、そこでキリストを証しし、その実を刈り取る人たちのことです。



(※平安について:以下2014年5月日のメッセージから)新約聖書ではギリシャ語のエイレーネーという言葉が「平安」「平和」と訳されていますが、旧約聖書の「シャローム」の持つ意味を背景に使われています。この「シャローム」はユダヤ人の間では、「平安がありますように」との意味で日常の挨拶に用いられている言葉ですが、平安以外にも、健やかであること、繁栄すること、安心できること、和解がもたらされること・・・と多様な意味を含んでいます。さらに「シャローム」は創造主である神が創り与えるものであり、何も損なわれていない100%満たされた状態をも表しているのです。