2018年8月5日日曜日

自分の十字架


◎もしイエス様が牧師だったら

「もし、イエス様がある教会の牧師だったら、たぶんあなたはその教会には行きたいとは思わないでしょう。」フランシス・チャン牧師の言葉です。福音書の中でイエス様が語られていることばを読むなら、チャン牧師の言おうとしていることが分かると思います。イエス様の語られる真理のことばには妥協がなく、ときに私たちに厳しい選択を迫るからです。

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
(ルカの福音書9章23節~25節)

Ⅰ.わたしについて来たいと思うなら 

主イエスが出会った人々に、「わたしについて来なさい」と呼びかける場面が、福音書の中にたびたび登場します。ついて行った人々もいれば、ついて行かなかった人々もいます。また、途中でついて行くことをやめてしまった人々も大勢います。主イエスはここで、ご自身について来た弟子たちに対して、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と、その意思を再確認しています。こう問いかけられているようにも聞こえます。「あなたは真剣にわたしについて来たいと願っていますか?」「あなたはどんな事があっても、最後までわたしについて来たいですか?」「他のだれにでもなく、ただわたしにだけついて来たいと望んでいますか?」そのように問われたら、私は(あなたは)いったいどのように答えるでしょか。

主イエスが問われているのは、「ついて来るか、それともついて来ないのか」という私たちに対する厳しい問いかけです。中間はないのです。聖書の神様は私たち人間の自由な意思と選択、決断を尊重される方です。私達に選択権を残される方です。それは神様が愛なる方であり、私たちとの人格的な交流を求めておられるからです。全能の力を使って私たちをロボットのように操作されるような方ではありません。

「ついて来たいと思うなら」と書かれているこの箇所は、「願っているなら」、「望んでいるなら」、「求めているなら」という意味で語られていると思います。私たちが主イエスに従って行きたいと願い続けるために必要なのは、この方が私たちにとってどのような方であるかを知ることです。罪のない、聖い、義なる方であると同時に、哀れみと恵み、赦しに満ちた愛なる方です。私たちを主イエスのもとに近づけるのは、この方をもっと知りたいという願い(渇き)だけです。その願い(渇き)を与えてくださるのも神様です。

Ⅱ.自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

聖書や教会と関係のないところで「十字架を背負う」というフレーズを耳にすることがあります。多くの場合、「自分に課せられた苦しい運命を背負うと」いうような意味で使われています。辞書で調べると、「耐えがたい苦難、重い負担、消えることのない罪などをいつまでも身に持ち続ける。」などと書かれています。しかし、主イエスが語られた「十字架を負う」とはそのような意味ではありません。当時の人々が「十字架を負う」という言葉を聞いて思い浮かべたのは、十字架を背負って処刑場に向かっていく囚人たちの姿でした。新約聖書の中で十字架の象徴するものの一つは死です。主イエスは「重い宿命を背負いなさい」と語られたのではなく、「自分に死になさい」と語られたのです。「自分を捨てなさい」とか「自分に死になさい」とか、どうでしょう?皆さん、聞きたい言葉でしょうか?しかし、イエス・キリストについていくためには、必ずそこを通らないとならないです。

「自分に死ぬ」とは、「自分中心の生き方」をやめる、放棄するということです。ルカの福音書のみ、「日々」という言葉が使われていますが、主イエスは、「自分に死ぬ」ことは毎日の選択であることを、弟子たちに教えられたのだと思います。すなわち「自分中心の動機、願望、主張、やり方、生き方を放棄しなければ、私に従ってくることはできないのだよ。」と主イエスは教えておられるのではないでしょうか。神様が願っておられることを祈るためには、自分の願望を捨てなければならないと思います。神様が私たちを通して伝えたいことを語るためには、自分の語ろうとすることを捨てなければなりません。また、神様が私たちを通してなさりたいと願っていることをするためには、じぶんがしたいことを捨てなければなりません。皆さん、「捨てる」のは得意ですか?自分が大切にしているもの、こだわりのあるもの、未練があるものを捨てるのは、なかなか大変です。「捨てる」と聞いただけで、私もたじろぎます。しかし、私たちに朗報があります。神様が与えようとされているものは、私たちが捨てなければならないもの、あるいは願っているものよりも遥かにすぐれているのです。

Ⅲ.十字架にある安息

「十字架を負いなさい」と言われたときに、それを背負いたいと願う人は、まずだれもいないのではないでしょうか。「ただでさえ重荷を負って苦労しているのに、この上さらに重い十字架など背負わされたくない。」そう思って当然だと思います。しかし、そう思うのは「十字架を負う」ことの意味を知らないからです。先程、説明したように「十字架を負う」とは「重い宿命を背負う」ということではありません。「自分に死ぬ」ことです。「自分を捨てる」「自分に死ぬ」たしかに厳しい要求に聞こえます。しかし、ここでつまずいてはいけません。なぜなら、続きがあるからです。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイの福音書11章28節~30節)

ルカの福音書9章で、私たちが背負うように求められているものは「自分の十字架」です。一方、マタイの福音書11章で、背負うように求められているのは「わたし(主イエス)のくびき」です。重いと思っていた「自分の十字架」はそれを背負ったときに、たましいに安らぎを与える「主イエスのくびき」へと変えられるのです。「自分中心な生き方を捨てて、主イエスについて行くなら、主イエスが私たちの重荷(十字架)をともに担ってくださり、私たちのたましいに安らぎが与えられる。」それが聖書の約束です。