2018年7月1日日曜日

御子の血による贖い


私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ人への手紙1章7節)

◆あがないの工房

私の20年来の友人、敬愛するチャーリー・タッカー先生は、テキサスの郊外にある農場付きの家に住んでおられます。彼は「小さな」と言うのですが、一万坪近くある農場です。周辺には広大な農場が広がっているそうです。古いメンバーの方はご存知のようにチャーリー先生の趣味は木工です。時間があると、自宅にある工房(作業場)にこもって旋盤を回し、廃材を加工して、次々と素晴らしい作品を作り上げて行きます。以前、チャーリー先生が作られた万年筆をプレゼントとしていただいたことがありますが、プロの職人が作ったような見事な出来栄えでした。他にもサラダボールや聖餐式のセットなど、実用品から装飾品まで、創作の幅は広いです。チャーリー先生の作品の多くはプレゼントとして家族や親しい友人たちの手に渡っていくのですが、きっとそれも彼が楽しんで作品作りに励んでいる大切な理由の一つなのでしょうね。

ある時、そのチャーリー先生から、「日本語の看板を作りたいので、自分で調べた言葉が間違っていないか見てくれないか。」と頼まれたことがありました。彼がテーブルの上に広げたのは、工房の扉の上に付ける看板のデザインでした。そこには「あがないの工房」と書かれていました。一風変わった名前ですが、チャーリー先生がなぜ自分の工房にそのような名前をつけたのか、私にはすぐピンと来ました。

「贖い」は、日常であまり使うことばではありませんが、旧約聖書、新約聖書で何度も目にすることばです。あがないには、「あるものを代償にして手に入れる」「買い取る」というような意味があります。また「罪をあがなう」というような使い方もします。聖書で使われる「あがない」にも当然そのような意味が含まれていますが、中心的な意味において、贖うのは常に恵みに満ちた神様であり、贖われるのは罪を持った人間です。聖書のあがないには、必ず犠牲がともなうのですが、その犠牲を払われるのもまた神様なのです。つまり、「自分を造られた方である神から離れ、罪の中に失しなわれ、本来の存在価値を失ってしまった人間をあがなう(取り戻す)ために、神が犠牲(代価)を払われた。」それが聖書のストーリーです。

野原に捨てられた丸太や材木屋さんの裏庭に置かれた廃材を見つけると、チャーリー先生の目には、素晴らしい宝物のように映るのだそうです。彼は、やがては朽ちてしまうか、捨てられてしまう運命にある材木を自分の工房に持ち帰って加工し、新しいいのちを吹き込んで、素晴らしい作品へと作り上げるのです。

かつての私たち、罪の中に埋もれた私たちは、ちょうど裏庭に捨てられた価値のない廃材のような存在でした。しかし、救い主イエス・キリストが私たちを探して、見出してくださったのです。ご自身のいのちを犠牲にして、あがなってくださったのです。新しいいのちを吹き込み、ご自身の尊い価値ある作品としてくださったのです。

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
(ルカの福音書19章10節)

主イエスは、その人の過去ではなく、その人の現状ではなく、その人の中にあるこれから形作られる神の形を見ているのです。私たちは汚れて、傷ついているかもしれません。とても価値のあるような存在には見えないかもしれません。しかし、キリストの血によってあがなわれるなら、新しいものへの造り変えられ、日々、新しくされるのです。私たちはキリストの目で、自分自身を見るべきであり、また周囲の人々を見ていかなければなりません。私たちが自分や人を見て、どう感じるかが大切なのではなく、私たちの造り主である神様が、どのようにご覧になっているかが大切なのです。神の望まれる姿が未完成の私たちの中に、人々の中に隠れているのです。私たちをあがなってくださる救い主だけが、私たちを作り変えることができるのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人第二の手紙5章17節)

あがなわれた私たちには「新しく造られた者」という新しいアイデンティティが与えられています。エペソ人への手紙2章10節では「神の作品」と呼ばれています。私たちを造られた神ご自身が、私たちを価値ある存在としてご覧になり、尊い目的の中に生かしてくださるのです。その真理に生きる時に、私たちは、キリストに似た者へとさらに造り変えられていくのです。