2018年7月22日日曜日

からし種ほどの信仰


今日は、みなさんといっしょに「信仰」について考えてみたいと思います。先に結論から言いますが、信仰とは生ける神への信頼です。願いをかなえる方法ではありません。ご自身に信頼する人々を通して、神は制限なく力を現される。それが聖書の教える原則です。マタイの福音書から二箇所引用しますが、主イエスは「どんなことでも」と同じことばで語っておられます。

Ⅰ.からし種ほどの信仰があったら

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
(マタイの福音書17章20節)

「からし種ほどの信仰があったら・・・どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」この主イエスの弟子たち(私たち)に対する大胆な宣言を聞いて、皆さんはどう思われますか。ちなみに、「山」は当時の表現では、ほとんど不可能に見えることを指しています。私たちに信仰があるなら何でもかなうと解釈して良いのでしょうか。

ここで主イエスが問題にしておられるのは弟子たちの(私たちの)信仰の大小ではなく、生ける神への信頼があるかないかです。信仰は生ける神への信頼(関係)です。信仰は方法ではありません。私たちにとって最高に良き方である父なる神との人格的な関係なのです。

私には成人した4人の子どもたちがいますが、物心ついた時から、成人した今も、父親である私にいろいろ願い事をしてきました。父親である私は、その願いが子どもたちのためになることであり、時期が適切であると判断すれば、その願い答えてきました。子どもたちが成長するにつれて、信頼関係の中で要求に答えてきました。

もし、こういうことを言うお父さんがいたらどうでしょう。「私が子どもに新車を買い与えたのは、絶対買ってくれると、私のことを信じ切っていたからですよ。」とか・・・。「海外旅行のお金を出してあげたのは、あまりにしつこく頼むので根負けして。」とか・・・そのような関係に信頼を見出すことはできるでしょうか。

信仰には従順が求められます。「信仰があるなら、自分の願いどおりに神様が動いてくださる。」ということでは決してありません。「神の願いを自分の願いとするなら、神が私たちの信仰を通して働いてくださる。」ということだと思います。くり返しますが、信仰とは良き方である父なる神への信頼です。神の力がどれほど現れるかは、信頼している方に対して、私たちがどれほど従順であるかと比例しているように思います。

主イエスが語っておられるのは、こういうことだと思います。「父のみこころを求めて、それを行うならば、どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。なぜなら、それを行っているのはあなた方ではなく父だからです。」

Ⅱ.心を一つにして祈るなら

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイの福音書18章19節~20節)

このもう一つの箇所では、ともに祈ることについて教えています。「心を一つにして祈る」とはどういうことでしょうか。単に人間が合意して求めれば神が動いてくださるということなのでしょうか。それだけでは肝心な部分が抜け落ちていると思います。主イエスは、「わたしの名において集まる所には」と語っておられますが、それは、「わたしを主とする人々が、わたしのこころを求めて集まる所には」という意味です。まず、そこに集まる一人ひとりのこころが主である神のみこころと一つとされることが大切です。それがなされて初めて、私たちはこころを一つにすることができるのです。主である神のみこころに同意することなしに、私たちは一致することはできません。

地上に父のみこころが現されるためには、私たちの祈りが必要なのです。私たちのこころと、天の父のこころとがピッタリと重なり合うときに、神はご自身のすぐれた力を、制限なく現してくださるのです。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ人への手紙1章18節~19節)