2018年6月3日日曜日

わたしだ。恐れることはない。


夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
(ヨハネの福音書6章16節~21節)

Ⅰ.恐れ

人間を苦しめる問題の一つに恐れがあります。長い人生の中で、私たちは、時に恐れにかられるような困難な状況を通らされることがあります。恐れとは無縁だと言う人がいるかもしれませんが、心配というレベルで考えればどうでしょうか。何があっても、ぜんぜん心配しない人はいないと思います。

最近、強く印象に残る夢を見ました。その一場面で、にぎやかな町の光景が広がっていました。人々がお茶を飲んだり、食事をしたり、買い物をしたりと一見平和に見えるありふれた日常の光景でしたが、私がその光景を眺めている時に突然語りかける声がありました。「この人々一人ひとりの心の奥底には、恐れがあるんだよ。」と。その恐れとは、死に対する恐れです。とても不思議な夢でした。創造主との関係を失ったときから、人間は恐れを抱えて生きているようになったと聖書は教えています。恐れは人間にとって最大の問題の一つです。

Ⅱ.吹きまくる強風

さて、聖書にもどりますが、弟子たちが嵐の湖で経験した恐れも死の恐れでした。今まで穏やかだった天候が急変し、嵐に巻き込まれたのです。彼らが乗っていた船は、漁に使われた小舟であったと思います。自然の猛威の前には彼らはまったく無力でした。熟練した漁師たちもいましたが、弟子たちは、恐怖にかられパニックに陥ったに違いありません。

沈みそうな船の中で慌てふためいていた弟子たちは、さらに血の気を失うような光景を目にします。嵐の湖の上を歩いて近づいてくる人影があるのです。ところが、青ざめ我を失っている彼らの耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきました。「わたしだ。恐れることはない。」自体は一変します。他の福音書の記事では、波と風が静まり、弟子たちの恐怖が喜びに変わったことを伝えています。

Ⅲ.エゴー・エイミ

主イエスが語られたこのことば「わたしだ。」(わたしは~です)は、原語のギリシャ語でエゴー・エイミといい、ヨハネの福音書に24回登場します。ここでは詳細な説明は省きますが、旧約聖書でイスラエルの神ヤハウェがご自身を名乗られる時に使われた表現と同じです。すなわち、主イエスは「わたしがイスラエルの神ヤハウェである」と宣言しておられるのです。イエス・キリストは人間としてこの世界においでになりましたが、創造主としての力、自然界を支配する力を宿しておられました。その方が「わたしだ。恐れることはない。」と語られた時に、すべての状況が一変しました。

ヨハネの福音書は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という一節で始まります。キリストご自身が神のことばであり、キリストの語られたことばには私たちの理解を超える創造的な力があることを教えています。

出口の見えない困難な状況の中で心配し、恐れ、身動きの取れない私たちのところに、主イエスは来られ、「わたしだ。恐れることはない。」「心配しなくて大丈夫だよ。私がいるから。」と語りかけてくださいます。興味深いことですが、今日学んでいる箇所の並行記事(マタイ14:22、マルコ6:45)には次のように書かれています。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて・・・」主イエスはご自身がどのような方であるかを体験的に教えるために、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、強いて嵐の中を通過させたのです。私たちの救い主は、すべての状況をご存知であり、それがどんな状況であってもその中で私たちとともにいてくださるお方です。

Ⅳ.目的地

21節に、「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」とありますが、新改訳で「ほどなく」と訳されている箇所は、口語訳では「すぐ」、英語では「immediately」と訳されています。旅人であるなら、だれも嵐の中を通過したい、できるだけ遠回りをしたいと望む人はありません。願わくは、嵐を避けて旅をしたいと望みますし、目的地に早く付きたいと望みます。この記事の中で、弟子たちは嵐の中を通過して目的地に到着しますが、聖書のフォーカスは、嵐にも、目的地にも置かれていません。聖書のフォーカスは、すべてをご支配しておられるキリストに置かれています。主イエスがこの船旅を計画され、強いて弟子たちを船に乗せ、嵐の中を通過させ、弟子たちにご自身がどのような方であるかを示され、目的地に連れて行かれたのです。私たちにとって大切なのは、すべてをご支配され、愛と恵みに満ちたキリストが私たちと共におられるかどうか、それだけです。この真実な方は私たちを必ず目的地に連れて行ってくださるのです。