イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2018年6月10日日曜日

主のもとに来なさい


あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
(ペテロ第一の手紙2章3節~6節)

Ⅰ.主のもとに来なさい

この箇所をメッセージ中で引用するのは、3度目か4度目になると思いますが、その都度、別な角度から導かれたことを語っています。今日のメッセージタイトルは「主のもとに来なさい」です。これはペテロが教会(クリスチャン)に対して呼びかけていることばです。

最近、妻と朝、公園を歩きながら祈るのを日課にしています。6キロから7キロ歩くのに1時間半ほどかかりますが、自然を眺めながら歩くとこころも落ち着きますし、部屋にこもって祈るより祈りやすいです。ときには気が重いときもありますが、「父なる神様・・・」と語りかけると、それに続くことばが出てきます。祈りは、主のもとに近づく最初の入口です。すれ違う人たちに「おはようございます!」声をかけると、そこから意外な会話に発展していくこともあります。神様との会話も、「父なる神様」、「主よ」、「聖霊様」と呼びかけるところからはじまります。神様は私たちがご自身に語りかけられるのを待っておられるのです。

Ⅱ.聖なる祭司として

旧約の時代、神殿に入って礼拝を捧げることが許されていたのは祭司だけでした。そして神殿の中のもっとも聖なる場所である至聖所に関しては、大祭司だけが、年に一度だけ入ることが許されていました。神に近づくとはそれほど神聖なことであったのです。新約聖書は、私たち救われた者が神の宮(聖霊の宮)であると教えていますが、ここで宮と翻訳されているギリシャ語のナオスは至聖所を指しています。クリスチャン、一人ひとりが神の聖霊の宿る神殿であり、また祭司としての立場が与えられているのです。

あなたがたは神の宮(ナオス)であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
(Ⅰコリント3:16)

主イエスが語られたことばもこのことを裏付けています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。                 (ヨハネの福音書4章23節)

キリストの者とされた人々は、いつでも、どこででも神に近づいて礼拝する特権が与えられているのです。

Ⅲ.いつくしみ深い方

「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」「いつくしみ深い方」は、口語訳、新共同訳では「恵み深い方」と訳されています。ペテロは、当時の教会を形成していたユダヤ人のクリスチャン、異邦人のクリスチャン両方に対して、「あなたがたは、主がどれほどいつくしみ(恵み)深い方であるかを味わっているのだから、ためらわないで、恐れないで、主のもとに来なさい。」と呼びかけています。「主のもとに来なさい」とは「日々、いつも、繰り返し、主のもとに来続けなさい。」という意味です。

主のいつくしみ深さ(恵み深さ)については、ペテロはだれよりも深くそれを味わっていたと思います。なぜなら、主イエスは最後の最後に自分を見捨てたペテロを決して見捨てずに、他の弟子たちを励まし、これから生まれてくる教会を導いていく大きな責任をお与えになったからです。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカの福音書22章32節)

日本語の聖書で「立ち直ったら」と訳されている箇所は英語の聖書では「わたしのところに戻ってきたとき」あるいは「もう一度向きを変えたとき」とも訳されています。ペテロは自分の努力で回復したわけではありませんし、時間が経過する中で自然にいやされたわけでもありません。いつくしみ深い(恵み深い)主イエスにもう一度目を向けて、主のもとに戻って行ったとき、主に近づいて行った時にいやされ、回復されたのです。

復活されて弟子たちの前に現れた主イエスは、ペテロに近づかれ「あなたはわたしを愛しますか。」と三度訪ねられました。「自信があるか?」「努力するか?」「ビジョンがあるか?」とは問われませんでした。ただ「わたしを愛しますか?」と問われたのです。それは、ペテロに託されていた働きは、主の恵みを知らなければ、そこに留まっていなければ、決して達成することのできない働きだったからです。

私たちは、自分に失望していないでしょうか?努力することに疲れていないでしょうか?忙しさの中で平安を失っていないでしょうか?もしそうであるならば、その時こそ、向きを変えて、いつくしみ深い主のもとに戻っていくチャンスだと思うのです。

2018年6月3日日曜日

わたしだ。恐れることはない。


夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
(ヨハネの福音書6章16節~21節)

Ⅰ.恐れ

人間を苦しめる問題の一つに恐れがあります。長い人生の中で、私たちは、時に恐れにかられるような困難な状況を通らされることがあります。恐れとは無縁だと言う人がいるかもしれませんが、心配というレベルで考えればどうでしょうか。何があっても、ぜんぜん心配しない人はいないと思います。

最近、強く印象に残る夢を見ました。その一場面で、にぎやかな町の光景が広がっていました。人々がお茶を飲んだり、食事をしたり、買い物をしたりと一見平和に見えるありふれた日常の光景でしたが、私がその光景を眺めている時に突然語りかける声がありました。「この人々一人ひとりの心の奥底には、恐れがあるんだよ。」と。その恐れとは、死に対する恐れです。とても不思議な夢でした。創造主との関係を失ったときから、人間は恐れを抱えて生きているようになったと聖書は教えています。恐れは人間にとって最大の問題の一つです。

Ⅱ.吹きまくる強風

さて、聖書にもどりますが、弟子たちが嵐の湖で経験した恐れも死の恐れでした。今まで穏やかだった天候が急変し、嵐に巻き込まれたのです。彼らが乗っていた船は、漁に使われた小舟であったと思います。自然の猛威の前には彼らはまったく無力でした。熟練した漁師たちもいましたが、弟子たちは、恐怖にかられパニックに陥ったに違いありません。

沈みそうな船の中で慌てふためいていた弟子たちは、さらに血の気を失うような光景を目にします。嵐の湖の上を歩いて近づいてくる人影があるのです。ところが、青ざめ我を失っている彼らの耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきました。「わたしだ。恐れることはない。」自体は一変します。他の福音書の記事では、波と風が静まり、弟子たちの恐怖が喜びに変わったことを伝えています。

Ⅲ.エゴー・エイミ

主イエスが語られたこのことば「わたしだ。」(わたしは~です)は、原語のギリシャ語でエゴー・エイミといい、ヨハネの福音書に24回登場します。ここでは詳細な説明は省きますが、旧約聖書でイスラエルの神ヤハウェがご自身を名乗られる時に使われた表現と同じです。すなわち、主イエスは「わたしがイスラエルの神ヤハウェである」と宣言しておられるのです。イエス・キリストは人間としてこの世界においでになりましたが、創造主としての力、自然界を支配する力を宿しておられました。その方が「わたしだ。恐れることはない。」と語られた時に、すべての状況が一変しました。

ヨハネの福音書は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という一節で始まります。キリストご自身が神のことばであり、キリストの語られたことばには私たちの理解を超える創造的な力があることを教えています。

出口の見えない困難な状況の中で心配し、恐れ、身動きの取れない私たちのところに、主イエスは来られ、「わたしだ。恐れることはない。」「心配しなくて大丈夫だよ。私がいるから。」と語りかけてくださいます。興味深いことですが、今日学んでいる箇所の並行記事(マタイ14:22、マルコ6:45)には次のように書かれています。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて・・・」主イエスはご自身がどのような方であるかを体験的に教えるために、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、強いて嵐の中を通過させたのです。私たちの救い主は、すべての状況をご存知であり、それがどんな状況であってもその中で私たちとともにいてくださるお方です。

Ⅳ.目的地

21節に、「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」とありますが、新改訳で「ほどなく」と訳されている箇所は、口語訳では「すぐ」、英語では「immediately」と訳されています。旅人であるなら、だれも嵐の中を通過したい、できるだけ遠回りをしたいと望む人はありません。願わくは、嵐を避けて旅をしたいと望みますし、目的地に早く付きたいと望みます。この記事の中で、弟子たちは嵐の中を通過して目的地に到着しますが、聖書のフォーカスは、嵐にも、目的地にも置かれていません。聖書のフォーカスは、すべてをご支配しておられるキリストに置かれています。主イエスがこの船旅を計画され、強いて弟子たちを船に乗せ、嵐の中を通過させ、弟子たちにご自身がどのような方であるかを示され、目的地に連れて行かれたのです。私たちにとって大切なのは、すべてをご支配され、愛と恵みに満ちたキリストが私たちと共におられるかどうか、それだけです。この真実な方は私たちを必ず目的地に連れて行ってくださるのです。