2018年5月20日日曜日

良い忠実なしもべ




天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
(マタイの福音書25章14節~29節)



Ⅰ.神の国(天の御国)


主イエスはしばしば神の国(天の御国)を主題にメッセージ語られました。主イエスの語られた福音の中心テーマは常に神の国であったと言っても過言ではありません。神の国を表すギリシャ語バシエイアの文字通りの意味は「(王の)支配」です。マタイの福音書のこのたとえで、主イエスは、お金持ちの主人とその主人から財産を託された三人のしもべの関係から神の国を教えています。


Ⅱ.タラントとは 


タラントは当時の通貨の単位ですが、1タラントが6000デナリ、1デナリが当時の平均的な日当と考えられるそうです。そうであるならば、単純に1日の日当を1万円で考えると、1タラントは6000万円、2タラントは1億2千万円、5タラントは3億円ということになります。主イエスはなぜ、当時の庶民の感覚からかけ離れたこのような金額を用いたのでしょうか。いくつか理由が考えられますが、ここから読み取れるのは一番目にこの主人が大金持ちであり非常に気前の良い太っ腹な方であること、二番目にしもべたちにゆだねられたものが巨額の富であったこと、三番目に自分のしもべたちを非常に信頼していたことです。


このたとえを私たちに当てはめて考えるなら、神の国に生きる者(神のしもべとされた者)一人ひとりに、王であるキリストが莫大な富を委ねられているということが理解する助けとなります。その富とは必ずしもお金だけを指してはいません。私たち一人ひとりに与えられた能力、才能、健康、時間、私たちに与えられているすべての物、突き詰めて言えば私たち自身、私たちのいのちが創造主である神から委ねられたものであると言うことができます。そのように、私たちには、すでにたくさんの富が与えられていることに気づくべきです。

Ⅲ.自分の財産を預け


聖書の視点から見るならば、私たちが所有しているものは何一つありません。すべては神様から預けられたものであり、それを有益な目的のために、賢く管理し、用いる責任が私たちに与えられているのです。私たちのいのちを含め、すべては神さまから預けられたものであるというのが主イエスの教えです。神の国に生きる者には、たくさんの富がゆだねられているのですが、その所有権を放棄して(キリストに所有権を明け渡して)生きることが求められているのです。でもその生き方が私たちの人生を豊かにします。「自分のいのちは自分のもの。自分の所有しているものは自分のもの。」という生き方と、「私のいのちは私を買い取ってくださったキリストのもの。私の持っているものは全て、王なるキリストから預かっているもの。」という生き方には雲泥の差があります。


Ⅳ.動機 


五タラントを預かったしもべと、二タラントを預かったしもべは、それぞれ預かった資産を使いリスクを犯して商売をし、自分たちの主人のために財産を増やします。ふたりは帰ってきた主人から大いに称賛されます。一方、一タラントを預かったしもべはそれを土の中に隠し、何もせずに主人が帰ってくるまで時間を無為に過ごしてしまいます。彼は主人の財産を盗んだわけでも、減らしたわけではなかったのですが、主人から厳しい叱責を受けます。主イエスは何にフォーカスを当てて語られたのでしょうか。主人は単に、資産が増えた、増えなかったという結果を評価しているのでしょうか。そうではなく、三人のしもべたちの動機を評価していると思うのです。資産を増やしたふたりのしもべの動機は、自分たちを信頼してくれた主人に喜んでもらいたいという願いから生まれたものでした。一方で、預かった資産を土の中に埋めたしもべは、自分のものにならないもののために働く気はなかったのだと思います。彼は、自分を信頼して資産を預けた主人の気持ちをまったく理解しなかったのです。「主人の喜びをともに喜んでくれ。」というのが、他のふたりに対する最大の賛辞でした。神の国の王であるキリストは、しもべである私たちと、働きをともにし、苦楽をともにし、最後にもたらされる成功をともに喜びたいのです。主人のこの願いを共有できなかったことが、一タラント預けられたしもべに致命的に欠けていたものでした。私たちは自分の人生をただ自分のために生きようとしているでしょうか?それとも、キリストから預かった人生を、神のために生きようとしているでしょうか?その動機が問われています。


Ⅴ.主人の帰還


25章には、主イエスが語られた三つのたとえが登場します。最初に、「十人のおとめ」のたとえ、次にこの「タラント」のたとえ、最後に「羊と山羊」のたとえです。どれもこの世界の終末とキリストの再臨について教えています。このタラントのたとえで語られているように、主人はやがて帰ってこられるのです。その時に私たちの人生が評価され、私たちの動機、私たちのしてきたことすべてが精算されます。また、この世界の終わりを待つまでもなく、わたしたちの人生にも終止符が打たれる時が必ず来ます。すべての人間にとって一番大切なことは、私たちをお造りになられた創造主がおられること、その創造主が私たち愛し、私たちに、こころと身体、時間といのち、さまざまな物質的な恵みをタラントとしてすでに与えてくださっているのです。あなたはそれを土に埋めてしまうのでしょうか、自分だけのために使おうとするのでしょうか、それとも、愛情を込めてあなたをお作りになった神さまと、神の作品であるあなたの周囲にいる人々のためにそれを使いたいと願うのでしょうか。その選択があなたに与えられているのです。