2018年5月27日日曜日

握りしめる生き方から手放す生き方へ


それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
(ルカの福音書19章1節~9節)

私たちは、何かを追い求めて、またいろいろなものを握りしめて生きています。でも、少し立ち止まって、何が私たちにとって本当に価値のあるものは何なのか、また何を求めて生きていくべきか、主イエスと一人の人物との出会いから考えてみたいと思います。

Ⅰ.取税人のかしらザアカイ

当時の取税人はローマ政府に収める税金を同胞のユダヤ人から取り立てるのが彼らの仕事でした。また、人々が収めるべき以上の金額を取り立ててピンはねする者たちもいたので、ユダヤ人社会の中では嫌われ者でした。

ザアカイがなぜそのような職業を選んだのかまでは書かれていません。しかし、職業の良し悪しは別として、ザアカイが、その道でトップに上り詰めるだけの優れた能力と野心を持った人物であったことが伺えます。ザアカイは、彼の望んでいた成功を手に入れましたが、そのために大きな代償を払いました。家族との関係や友人たちとの友情を犠牲にしなければ、この成功は得られなかったと思います。

Ⅱ.急いで降りて来なさい

そんな取税人のかしらザアカイに会うために、主イエスはエリコの町を訪れ、いちじく桑の木に登っている彼を見つけて声をかけられたのです。驚くことに主イエスはザアカイを知っておられ、彼の名を呼んで、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と声をかけられました。

主イエスの呼びかけに対するザアカイの答えも驚くものでした。あくどい商売で稼いた命よりも大切なお金を手放すと言うのです。主イエスは一言もそんなことをザアカイに求めてはおられません。主イエスが求めておられたのは、ザアカイの友となることでした。それを悟ったザアカイの心に一瞬にして大きな変化が起きたのです。

Ⅲ.きょう、救いがこの家に来ました

ザアカイがそれまで握りしめていたものがありました。人々に対する恨み(こいつらをいつか見返してやるというような動機があったかもしれません)、取税人のかしらとしての地位と権力、野心、そしていのちよりも大切なお金。誤解のないように言いますが、成功や地位やお金はそれ自体で悪いものではありません。むしろクリスチャンが社会の中で成功し、影響力のある立場に置かれ、経済的にも祝福されて、それを神の国のために豊かに使えるならば素晴らしいことだと思います。問題は、人間が地位や権力、野心やお金の奴隷になってしまうときに起こります。

ザアカイは主イエスと出会ったときに、この方との友情を手に入れるためであるならば、成功も地位もお金も、すべて惜しくないと思ったのです。それだけでなく、ザアカイは自分の生き方を変えたいと思いました。罪が示されたのです。ザアカイは次のように言います。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」簡単に言うならば、「イエスさまあなたとの友情を手に入れられるならばすべてを手放してもいいです。」それがザアカイの告白でした。ザアカイの真剣な告白に対して、主イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。」とお答えになられました。

Ⅳ.キリストのうちにある宝

イエス・キリストとの出会いには私たちの人生を180度変える力があります。イエス・キリストと出会い、生き方を変えられ(変えられ続け)、主イエスを友として歩んでいる人々、それがクリスチャンです。聖書はキリストのうちにある宝について教えています。その宝は、私たちが握りしめているどんなものよりもはるかに素晴らしい価値を持った宝です。キリストのうちにある宝とは、その深い赦しと豊かな恵み、私たちに向けられたいつまでも変わらない愛です。キリストはその宝「ご自身」を私たちに与えたいと願っておられるのです。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
(コロサイ人への手紙2章3節)