イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2018年5月27日日曜日

握りしめる生き方から手放す生き方へ


それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
(ルカの福音書19章1節~9節)

私たちは、何かを追い求めて、またいろいろなものを握りしめて生きています。でも、少し立ち止まって、何が私たちにとって本当に価値のあるものは何なのか、また何を求めて生きていくべきか、主イエスと一人の人物との出会いから考えてみたいと思います。

Ⅰ.取税人のかしらザアカイ

当時の取税人はローマ政府に収める税金を同胞のユダヤ人から取り立てるのが彼らの仕事でした。また、人々が収めるべき以上の金額を取り立ててピンはねする者たちもいたので、ユダヤ人社会の中では嫌われ者でした。

ザアカイがなぜそのような職業を選んだのかまでは書かれていません。しかし、職業の良し悪しは別として、ザアカイが、その道でトップに上り詰めるだけの優れた能力と野心を持った人物であったことが伺えます。ザアカイは、彼の望んでいた成功を手に入れましたが、そのために大きな代償を払いました。家族との関係や友人たちとの友情を犠牲にしなければ、この成功は得られなかったと思います。

Ⅱ.急いで降りて来なさい

そんな取税人のかしらザアカイに会うために、主イエスはエリコの町を訪れ、いちじく桑の木に登っている彼を見つけて声をかけられたのです。驚くことに主イエスはザアカイを知っておられ、彼の名を呼んで、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と声をかけられました。

主イエスの呼びかけに対するザアカイの答えも驚くものでした。あくどい商売で稼いた命よりも大切なお金を手放すと言うのです。主イエスは一言もそんなことをザアカイに求めてはおられません。主イエスが求めておられたのは、ザアカイの友となることでした。それを悟ったザアカイの心に一瞬にして大きな変化が起きたのです。

Ⅲ.きょう、救いがこの家に来ました

ザアカイがそれまで握りしめていたものがありました。人々に対する恨み(こいつらをいつか見返してやるというような動機があったかもしれません)、取税人のかしらとしての地位と権力、野心、そしていのちよりも大切なお金。誤解のないように言いますが、成功や地位やお金はそれ自体で悪いものではありません。むしろクリスチャンが社会の中で成功し、影響力のある立場に置かれ、経済的にも祝福されて、それを神の国のために豊かに使えるならば素晴らしいことだと思います。問題は、人間が地位や権力、野心やお金の奴隷になってしまうときに起こります。

ザアカイは主イエスと出会ったときに、この方との友情を手に入れるためであるならば、成功も地位もお金も、すべて惜しくないと思ったのです。それだけでなく、ザアカイは自分の生き方を変えたいと思いました。罪が示されたのです。ザアカイは次のように言います。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」簡単に言うならば、「イエスさまあなたとの友情を手に入れられるならばすべてを手放してもいいです。」それがザアカイの告白でした。ザアカイの真剣な告白に対して、主イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。」とお答えになられました。

Ⅳ.キリストのうちにある宝

イエス・キリストとの出会いには私たちの人生を180度変える力があります。イエス・キリストと出会い、生き方を変えられ(変えられ続け)、主イエスを友として歩んでいる人々、それがクリスチャンです。聖書はキリストのうちにある宝について教えています。その宝は、私たちが握りしめているどんなものよりもはるかに素晴らしい価値を持った宝です。キリストのうちにある宝とは、その深い赦しと豊かな恵み、私たちに向けられたいつまでも変わらない愛です。キリストはその宝「ご自身」を私たちに与えたいと願っておられるのです。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
(コロサイ人への手紙2章3節)

2018年5月20日日曜日

良い忠実なしもべ




天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
(マタイの福音書25章14節~29節)



Ⅰ.神の国(天の御国)


主イエスはしばしば神の国(天の御国)を主題にメッセージ語られました。主イエスの語られた福音の中心テーマは常に神の国であったと言っても過言ではありません。神の国を表すギリシャ語バシエイアの文字通りの意味は「(王の)支配」です。マタイの福音書のこのたとえで、主イエスは、お金持ちの主人とその主人から財産を託された三人のしもべの関係から神の国を教えています。


Ⅱ.タラントとは 


タラントは当時の通貨の単位ですが、1タラントが6000デナリ、1デナリが当時の平均的な日当と考えられるそうです。そうであるならば、単純に1日の日当を1万円で考えると、1タラントは6000万円、2タラントは1億2千万円、5タラントは3億円ということになります。主イエスはなぜ、当時の庶民の感覚からかけ離れたこのような金額を用いたのでしょうか。いくつか理由が考えられますが、ここから読み取れるのは一番目にこの主人が大金持ちであり非常に気前の良い太っ腹な方であること、二番目にしもべたちにゆだねられたものが巨額の富であったこと、三番目に自分のしもべたちを非常に信頼していたことです。


このたとえを私たちに当てはめて考えるなら、神の国に生きる者(神のしもべとされた者)一人ひとりに、王であるキリストが莫大な富を委ねられているということが理解する助けとなります。その富とは必ずしもお金だけを指してはいません。私たち一人ひとりに与えられた能力、才能、健康、時間、私たちに与えられているすべての物、突き詰めて言えば私たち自身、私たちのいのちが創造主である神から委ねられたものであると言うことができます。そのように、私たちには、すでにたくさんの富が与えられていることに気づくべきです。

Ⅲ.自分の財産を預け


聖書の視点から見るならば、私たちが所有しているものは何一つありません。すべては神様から預けられたものであり、それを有益な目的のために、賢く管理し、用いる責任が私たちに与えられているのです。私たちのいのちを含め、すべては神さまから預けられたものであるというのが主イエスの教えです。神の国に生きる者には、たくさんの富がゆだねられているのですが、その所有権を放棄して(キリストに所有権を明け渡して)生きることが求められているのです。でもその生き方が私たちの人生を豊かにします。「自分のいのちは自分のもの。自分の所有しているものは自分のもの。」という生き方と、「私のいのちは私を買い取ってくださったキリストのもの。私の持っているものは全て、王なるキリストから預かっているもの。」という生き方には雲泥の差があります。


Ⅳ.動機 


五タラントを預かったしもべと、二タラントを預かったしもべは、それぞれ預かった資産を使いリスクを犯して商売をし、自分たちの主人のために財産を増やします。ふたりは帰ってきた主人から大いに称賛されます。一方、一タラントを預かったしもべはそれを土の中に隠し、何もせずに主人が帰ってくるまで時間を無為に過ごしてしまいます。彼は主人の財産を盗んだわけでも、減らしたわけではなかったのですが、主人から厳しい叱責を受けます。主イエスは何にフォーカスを当てて語られたのでしょうか。主人は単に、資産が増えた、増えなかったという結果を評価しているのでしょうか。そうではなく、三人のしもべたちの動機を評価していると思うのです。資産を増やしたふたりのしもべの動機は、自分たちを信頼してくれた主人に喜んでもらいたいという願いから生まれたものでした。一方で、預かった資産を土の中に埋めたしもべは、自分のものにならないもののために働く気はなかったのだと思います。彼は、自分を信頼して資産を預けた主人の気持ちをまったく理解しなかったのです。「主人の喜びをともに喜んでくれ。」というのが、他のふたりに対する最大の賛辞でした。神の国の王であるキリストは、しもべである私たちと、働きをともにし、苦楽をともにし、最後にもたらされる成功をともに喜びたいのです。主人のこの願いを共有できなかったことが、一タラント預けられたしもべに致命的に欠けていたものでした。私たちは自分の人生をただ自分のために生きようとしているでしょうか?それとも、キリストから預かった人生を、神のために生きようとしているでしょうか?その動機が問われています。


Ⅴ.主人の帰還


25章には、主イエスが語られた三つのたとえが登場します。最初に、「十人のおとめ」のたとえ、次にこの「タラント」のたとえ、最後に「羊と山羊」のたとえです。どれもこの世界の終末とキリストの再臨について教えています。このタラントのたとえで語られているように、主人はやがて帰ってこられるのです。その時に私たちの人生が評価され、私たちの動機、私たちのしてきたことすべてが精算されます。また、この世界の終わりを待つまでもなく、わたしたちの人生にも終止符が打たれる時が必ず来ます。すべての人間にとって一番大切なことは、私たちをお造りになられた創造主がおられること、その創造主が私たち愛し、私たちに、こころと身体、時間といのち、さまざまな物質的な恵みをタラントとしてすでに与えてくださっているのです。あなたはそれを土に埋めてしまうのでしょうか、自分だけのために使おうとするのでしょうか、それとも、愛情を込めてあなたをお作りになった神さまと、神の作品であるあなたの周囲にいる人々のためにそれを使いたいと願うのでしょうか。その選択があなたに与えられているのです。

2018年5月13日日曜日

一番たいせつな命令



律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
マルコの福音書12章28節~31節)



Ⅰ.二つの命令


主イエスは旧約聖書全体のどの命令よりもこの二つの教えが大切であると語られました。マタイの福音書では、「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と書かれていますが、神さまのすべての教えを要約していると教えています。

Ⅱ.自分を愛するように



二つ目の命令をよく読むと、「自分を愛するように」というフレーズの中に、もう一つの命令が隠れていることに気づきます。牧師をしていると、いろいろな問題を持った方たちの相談を受けることがありますが、多くは人間関係の問題です。話しを聞いていると共通した問題が横たわっていることに気づかされます。本当の意味で「自分を愛せない」「自分を赦せない」という問題です。自分を赦し、愛せなければ、当然、身近な人たちを赦したり、愛したりすることはできません。そこからさまざまな問題を抱えるようになります。

Ⅲ.救いの道



聖書は、私たちに自分を赦し、自分を愛せるようになるための解決の道を教えています。それが、第一の命令である「神を愛する」ことです。「どのようにしたら神にお会いできるのか分からない、どのようにしたら神を愛せるのか分からない」、そのような私たちを、神様はキリストを通してご自身のもとに招いてくださっているのです。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
ヨハネの福音書14章6節



Ⅳ.神の愛



創造主である父なる神だけが私たちを本来の姿に回復してくださることのできるお方です。大きな犠牲を払って私たちを愛してくださった神の愛を知った時に、はじめて私たちは、自分が赦されていること、愛されていること、尊い価値ある存在であることを知ることができるのです。私たちを愛してくださっている神様の愛を受け止めることが最初の一歩です。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ人への手紙5章8節)

2018年5月6日日曜日

心を一つにして祈る


今年も気づくと5カ月が過ぎようとしていますが、この一年、私が自分の課題としている三つのことがあります。その三つとは「安息を取ること。」「関係を楽しむこと。」そして、「同意して(一致して)祈ること。」です。

今日は、この三つの中から「同意して祈ること。」の大切さについていっしょに学びたいと思います。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイの福音書18章19節~20節)

Ⅰ.わたしの名において

まず前提条件があることに気づかなければなりません。そうでないとこの箇所が教えている意味を取り違えてしまいます。決して、「キリストの名前(権威)を使えばなんでも手に入れられる、思うようになる。」ということではありません。ちなみに、今日は18節を引用しませんが、前後を読むと、神によって与えられた権威「つなぐ、解く」が悪霊に対する権威を主題に語っているわけではないことも分かります。「キリストのお名前によって」とは、「キリストの主権のもとで、キリストのご性質とみ心にかなう祈りをするなら」ということです。キリストのお名前によって、キリストのご性質に反する利己的な祈りをすることはできないはずです。キリストのお名前は「ご利益を招く魔法のことば」ではありません。

クリスチャンである私たちにはキリストの名前が記されています。クリスチャンとは、もともとはキリストの弟子たちに向けられた軽蔑的な呼び名でしたが(使徒の働き11章26節)、一方で、キリストに従う者、キリストに似た者という意味が込められたニックネームでもありました。

もしそうであるならば、キリストのお名前によって集まる時に、どんなに小さな集まりであってもその集まりは王であるキリストの主権の下に神の民が集まっているのであって、キリストのご性質が現われるものでなければなりません。

Ⅱ.地上で心を一つにして祈るなら

クリスチャンは祈る時に「アーメン」と締めくくりますが、「その通りです!」という同意を示す相打ちです。旧約聖書では、指導者が律法を読み上げた時に会衆が「アーメン」と呼応する場面が登場します。私たちが「アーメン」と言うのは、キリストのことばに対して同意を表すためです。

上の条件を満たした上で、神の家族が心を一つにして祈る時に、はじめて次のフレーズが有効になります。「天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」キリストの主権の下に集まったクリスチャンが心を合わせて祈る時に、その祈りは天の父の心と御手を動かすほどの力があるのです。王であるキリストとの同意があるならば、「どんな事でも」大胆に祈ってよいのです。私たちの信じている神さまは私たちの理解の及ばないスケールの大きなお方です。遠慮する必要はありません。

私たちが神のことばに同意して、一致して祈る時に、地上で神の国が広げられていきます。それはまず、私たちの身近な関係の中から始まっていきます。

地上において、王であるキリストの主権の下で神の民が決めたことが天においても承認されるというのが、この箇所の主題です。

Ⅲ.わたしもその中にいる

私たちの集まり(交わり、コイノニア)の中におられるキリストは私たちにとって王なる方であり、同時に友なる方です。主権を持っているのは私たちではなく、王としてそこにおられるキリストです。クリスチャンのどんな集まりであっても、このことを忘れてはいけません。

主イエスに与えられた預言的な別名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)です。(マタイの福音書1章23節)キリストは聖霊により、私たちの王として、私たちの集まりの中に常におられるのです。神の民である私たちは祈りにあってもその主権に従うかどうかが問われています。幸いなことに私たちの王は、愛と恵みに満ちた方であり平安をもって私たちを治めてくださる方です。私たちはキリストの主権の下に生きているでしょうか、天の父の御心に同意して生きているでしょうか、キリストの御名の下に神の家族と一致して祈っているでしょうか。もし、そうであるなら、天の父は私たちのために心を動かし、御手を動かしてくださるのです。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイの福音書28章18節~20節)