2018年3月11日日曜日

上にあるものを求めなさい



こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
(コロサイ人への手紙3章1節~4節)


Ⅰ.上にあるものを求めなさい


上(天)には、完全な神の国、キリストのご支配があります。天にはやがてこの地上に完成する神の国の完成図があります。下(私たちの生きているこの地上)にも神の国は訪れていますが、まだ完成してはいません。私たちが目にするこの世界の有様は悲惨です。罪に溢れ悪が支配し、争いの絶えないこの世界を正し、平和をもたらすことのできるお方は、キリストただお一人しかおられません。栄光に満ちた神の国をやがてこの地上に完成し、ご自身の民と治めることが創造主の究極的なご計画です。このご計画を実現するために、王なるキリストは、心と身体をご自身にささげた神の民を必要としています。キリストとのともに死に、復活のキリストにいのちを預けた人々、神の所有とされた民を求めておられるのです。


Ⅱ.キリストが私の内に生きておられる


最近のことですが、ユース・ウィズ・ア・ミッションのリーダーの一人、私の友人であるデイル・カフマン先生が、多くの迫害の中をくぐり抜けてきた中国の家の教会のリーダーとの出会いについて話してくれました。このリーダーは福音を伝えたことで、今まで7回、投獄され、人生の多くの時間を刑務所の中で過ごしてきた人物です。しかし、彼が投獄されるたびに、どこの刑務所でも、囚人たちが次々とキリストを受け入れクリスチャンになっていったそうです。その中の多く人々が釈放された後に家の教会を導く新たなリーダーとして活動しているそうです。


デイル先生が、ホテルの部屋のドアを開けて入ってくるのを見ると、彼は立ち上がって大きな笑顔で抱擁し熱烈な歓迎をして迎え入れてくれたそうです。謙虚で愛と喜びに満ちた彼は、見かけはまったく普通の人でしたが、この一人の忠実なクリスチャンを通して、神さまは数えきれない人々を神の国に導き入れたのです。デイル先生にとって彼の証しは、まるで使徒の働きの現代版を聞いているような、驚くべきものでした。


三代目の宣教師であるデイル先生も素晴らし働きをされてきた、本当に献身的な指導者です。しかし、デイル先生がこの家の教会のリーダーと話しをしている時に、自分との間に決定的な違いを感じたそうです。デイル先生はこのような言い方をされました。「私はクリスチャンとしてイエス様に心から仕えて生きてきたつもりですが、私の決断には常にいくつかの選択肢がありました。プランA、プランB、プランC、もしかしたらDくらいまで、あったかもしれません。プランAがだめならプランB、それもだめならプランCという具合に。しかし、彼には、常にプランAしかないことが分かったのです。」つまり、デイル先生のおっしゃりたいことは、この家の教会のリーダーの前には、常に一本の道しかなかったと言うことです。


デイル先生の話しを聞いて考えさせられました。「自分(洋二)はどうだろう?導きを求めないで計画を立てる時、あるは自分の計画を優先する時が度々なかったろうか。」「うまく行かなかった時のために、他の道を用意している時がなかったろうか。」「神さま以外に頼っているものが、まだたくさんあるのではないだろうか?」そんなことを自分に問いかけてみました。


家の教会のリーダーは、デイル先生にこのように語ったそうです。「私はもうずっと以前にキリストとともに死んでいるのです。私のいのちはキリストのうちに隠されています。どこに行っても、キリストが私の内に生きておられるのです。この手は私の手ではありません。この身体は私のものではありません。私の口は私の言葉を語るためのものではありません。」彼が手を置くときに刑務所の中で多くの病んだ人々が癒やされたそうです。


Ⅲ.この道の者


使徒の働きの中で、最初のクリスチャンたちは「この道の者」と呼ばれています。この道とは次のように語られたキリストご自身のことです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14章6節)「この道の者」とはキリストとともに、その導きにしたがって上にあるものを目指して、どこまでもまっすぐに進んでいく人たちのことではないでしょうか。この心を、この身体を、この口を、この人生をイエス様にささげて生きていけるなら、なんと幸いなことでしょう。


使徒の働きに登場するキリストの弟子たちも、中国の家の教会のクリスチャンたちも、困難な状況の中に生きる私たちの友人たちも弱さを持った人間であるという点で私たちとどこも変わりません。クリスチャンとして与えられた仕事を忠実に務め、家庭や友人を大切に、人生を楽しむことは私たちにとって必要なことですし、神さまはそれらの営みを祝福してくださいます。しかし、それだけでは嵐に晒された時に耐えることはできません。人生の試練に直面する時、困難な時代が到来する時には、何を心から頼りにしているか、何を土台にして生きているか、何に希望を置いて生きているかが問われるのです。自分のいのちを主であるキリストにお預けして生きているでしょうか。