イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2018年3月18日日曜日

コイノニア・私たちの交わり


新約聖書の中で「交わり」原語のギリシャ語では「コイノニア」という言葉が繰り返し使われています。コイノニアは、救われた人々と神(父、御子、聖霊)との交わり、また、救われた人々のお互いの交わりを指しています。私たちはみことばと祈りを通して神を知り、神の家族の交わり(コイノニア)を通して経験的に神を知ることができるのです。なぜなら、聖霊を通してコイノニアの中に神が共におられるからです。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
◇     ◇     ◇
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
(ヨハネの手紙第一1章3節~4節、7節)

Ⅰ.コイノニアの意味

日本語では「交わり」、英語では「Fellowship」と訳されていますが、翻訳された言葉だけからコイノニアの本来の意味を汲み取るのは難しいと思います。聖書の中でコイノニアがどのように使われているか、そこからこの言葉の意味を探っていきましょう。

◎コイノニアには「交わり」「共有する」、あるいは「・・・をともにする」という意味があります。この「ともに」をキーワードに聖書の言葉を拾っていくと、コイノニアを理解する上で助けになる下のような表現がたくさん見つかります。

ともに・・・ 恵に預かる 励ましを受ける 喜ぶ 力を尽くして祈る いこいを得る 働く 生きる 祝福を受ける 建てられる 一つのからだとなる 約束にあずかる 理解する 奮闘する 福音を広める 栄光を受ける 治める 追い求める 選ばれた (以上、2016年1月24日のメッセージの引用と補足です。)

Ⅱ.私たちの交わり

教会の関係を簡単に言い表すとしたら、まず「神の家族」という言葉が思い浮かびます。「神の家族」という言葉は、新約聖書の中でエペソ人への手紙2章19節だけに登場しますが、キリストを通して救われた人々が神の子とされ、神の家族である教会(エクレシア)に加えられることは、聖書全体が教えています。教会は神の家族であり、(スモール・グループ、ミニ・チャーチを含め)教会の交わりはすべて神の家族としての交わりです。教会(エクレシア)は建物でも、組織でもなく、神の家族であり、神の家族とされた人々と父、子、聖霊なる神との関係、またお互いの関係の上に築かれるものです。では、神の家族とされた私たちに求められる関係はどのような関係なのでしょうか。

1.神が光の中におられるように

「光」は、完全に聖く、義なる方であり、偽りのない神のご性質を表しています。その真実なご性質はなにがあっても決して変わりません。キリストを信じて罪赦され神の子とされた人々は、キリストの支払われた代価のゆえに、ただ恵みによって、神との親しい交わりの中に生きる特権が与えられています。

2.私たちも光の中を歩んでいるなら

「光の中を歩んでいるなら」と、条件付きで語られていますが、私たちには常に選択肢が与えられていることを示唆しています。光の中を歩むこともできるし、そうしないこともできるということです。闇の中に光を照らすと、中心は一番明るく、そこから離れると次第に暗くなり、光の届かないところは暗闇が覆っています。
私たちは、神の導きからそれてしまうことがあります。失敗もしますし、罪も犯します。しかし、常に神がおられる光の中に立ち返っていく機会が与えられているのです。光の中に待っておられるのは赦しに満ちた恵み深い、私たちの父であって、無慈悲な裁判官ではありません。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
(ガラテヤ人への手紙4章6節)

私たちは、罪を犯さないように一大決心をしても、次の瞬間に罪を犯してしまうようなものです。もし、私たちが自分の決意や意思の力で、罪に打ち勝つことができるならば、そもそもイエス様は十字架にかかる必要はなかったでしょう。大切なのは私たちの天の父がどのような方であるかを知ることです。そのためにイエス様が人として来てくださったのであり、それを教えてくださる方である方、御子の御霊である聖霊を送ってくださったのです。私たちのうちに住んでおられる聖霊は父との交わりを何よりも求めておられます。また、父が私たちと交わりをどんなに求めておられるのかも教えてくださるのです。聖霊だけが私たちの心に、父を求める渇きを与えてくださるお方だからです。私たちが光の中を歩み続けることのできる解決はそこにしかありません。

3.私たちは互いに交わりを保ち

光の中を歩んでいなければ(御父との親しい関係の中に生きていなければ、またそれを求めていなければ)、私たちは本当の意味で神の家族としての交わりを保っていると言うことはできません。救われて神の子とされた人々は日曜日だけ神の家族なのでしょうか?日曜日だけ父なる神と交わりを持つのでしょうか?無論そうではありません。救われて神の子どもとされた私たちは、いつも神の子どもですし、永遠に神の子どもとして生きる特権が与えられています。ただし、実際にその特権の中に生きるかどうかは、私たちの日々の選択にかかっています。男女が結婚して婚姻届を出せば、法律上は夫婦ですし、子どもが生まれて、出生届を出せば、法律上は親子です。しかし、本当に夫婦として、また親子として、時間を共に過ごし、ともに悲しんだり喜んだりしながら、親密な家族としての関係の中に生きているかどうかは別な話しです。神の家族の交わり(コイノニア)には、もう一つ大切な性質があります。(父、子、聖霊なる)神との交わり、神の家族の交わりは、私たちにとって、楽しく喜びに満ちたものであるということです。

4.御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「罪は赦されて恵みの中に生きる権利が与えられている、それなのに罪を犯してしまう。」それが私たちの哀れな実情です。しかし、そんな私たちには希望が与えられています。イエス・キリストが十字架の上で代価を払い、私たちの罪の負債をすべて精算してくださっていること、私たちの天の父が赦しに満ちた良き方であること、その良き方である父のもと(恵みの御座)へいつでも近づくことが許されていること、助け主である聖霊が私たちに理解を与え常に助けてくださること。私たちが、その希望の中に生きるようにとキリストは道を開いてくださったのです。

2018年3月11日日曜日

上にあるものを求めなさい



こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
(コロサイ人への手紙3章1節~4節)


Ⅰ.上にあるものを求めなさい


上(天)には、完全な神の国、キリストのご支配があります。天にはやがてこの地上に完成する神の国の完成図があります。下(私たちの生きているこの地上)にも神の国は訪れていますが、まだ完成してはいません。私たちが目にするこの世界の有様は悲惨です。罪に溢れ悪が支配し、争いの絶えないこの世界を正し、平和をもたらすことのできるお方は、キリストただお一人しかおられません。栄光に満ちた神の国をやがてこの地上に完成し、ご自身の民と治めることが創造主の究極的なご計画です。このご計画を実現するために、王なるキリストは、心と身体をご自身にささげた神の民を必要としています。キリストとのともに死に、復活のキリストにいのちを預けた人々、神の所有とされた民を求めておられるのです。


Ⅱ.キリストが私の内に生きておられる


最近のことですが、ユース・ウィズ・ア・ミッションのリーダーの一人、私の友人であるデイル・カフマン先生が、多くの迫害の中をくぐり抜けてきた中国の家の教会のリーダーとの出会いについて話してくれました。このリーダーは福音を伝えたことで、今まで7回、投獄され、人生の多くの時間を刑務所の中で過ごしてきた人物です。しかし、彼が投獄されるたびに、どこの刑務所でも、囚人たちが次々とキリストを受け入れクリスチャンになっていったそうです。その中の多く人々が釈放された後に家の教会を導く新たなリーダーとして活動しているそうです。


デイル先生が、ホテルの部屋のドアを開けて入ってくるのを見ると、彼は立ち上がって大きな笑顔で抱擁し熱烈な歓迎をして迎え入れてくれたそうです。謙虚で愛と喜びに満ちた彼は、見かけはまったく普通の人でしたが、この一人の忠実なクリスチャンを通して、神さまは数えきれない人々を神の国に導き入れたのです。デイル先生にとって彼の証しは、まるで使徒の働きの現代版を聞いているような、驚くべきものでした。


三代目の宣教師であるデイル先生も素晴らし働きをされてきた、本当に献身的な指導者です。しかし、デイル先生がこの家の教会のリーダーと話しをしている時に、自分との間に決定的な違いを感じたそうです。デイル先生はこのような言い方をされました。「私はクリスチャンとしてイエス様に心から仕えて生きてきたつもりですが、私の決断には常にいくつかの選択肢がありました。プランA、プランB、プランC、もしかしたらDくらいまで、あったかもしれません。プランAがだめならプランB、それもだめならプランCという具合に。しかし、彼には、常にプランAしかないことが分かったのです。」つまり、デイル先生のおっしゃりたいことは、この家の教会のリーダーの前には、常に一本の道しかなかったと言うことです。


デイル先生の話しを聞いて考えさせられました。「自分(洋二)はどうだろう?導きを求めないで計画を立てる時、あるは自分の計画を優先する時が度々なかったろうか。」「うまく行かなかった時のために、他の道を用意している時がなかったろうか。」「神さま以外に頼っているものが、まだたくさんあるのではないだろうか?」そんなことを自分に問いかけてみました。


家の教会のリーダーは、デイル先生にこのように語ったそうです。「私はもうずっと以前にキリストとともに死んでいるのです。私のいのちはキリストのうちに隠されています。どこに行っても、キリストが私の内に生きておられるのです。この手は私の手ではありません。この身体は私のものではありません。私の口は私の言葉を語るためのものではありません。」彼が手を置くときに刑務所の中で多くの病んだ人々が癒やされたそうです。


Ⅲ.この道の者


使徒の働きの中で、最初のクリスチャンたちは「この道の者」と呼ばれています。この道とは次のように語られたキリストご自身のことです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14章6節)「この道の者」とはキリストとともに、その導きにしたがって上にあるものを目指して、どこまでもまっすぐに進んでいく人たちのことではないでしょうか。この心を、この身体を、この口を、この人生をイエス様にささげて生きていけるなら、なんと幸いなことでしょう。


使徒の働きに登場するキリストの弟子たちも、中国の家の教会のクリスチャンたちも、困難な状況の中に生きる私たちの友人たちも弱さを持った人間であるという点で私たちとどこも変わりません。クリスチャンとして与えられた仕事を忠実に務め、家庭や友人を大切に、人生を楽しむことは私たちにとって必要なことですし、神さまはそれらの営みを祝福してくださいます。しかし、それだけでは嵐に晒された時に耐えることはできません。人生の試練に直面する時、困難な時代が到来する時には、何を心から頼りにしているか、何を土台にして生きているか、何に希望を置いて生きているかが問われるのです。自分のいのちを主であるキリストにお預けして生きているでしょうか。