2018年1月28日日曜日

弟子の条件



今までも何度かキリストの弟子についてみことばから学んできました。神はご自身の民であるクリスチャンにキリストの弟子として生きていくこと、またキリストの弟子を作っていくことを願っておられます。すべてのクリスチャンはキリストの弟子として召されているのですが、


イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイの福音書28章18節~20節)



Ⅰ.弟子とは、キリストのそばにいる人  



弟子と訳されているギリシャ語は「学ぶ者」を意味するマテーテースです。学ぶと言っても知的に勉強するという意味ではありません。キリストがどのような方であるかを、生活を通して体験的に学ぶと言う意味です。私たち夫婦は昨年の12月、結婚31年目を迎えました。しかし未だに夫であることを学んでいる最中です。夫婦としてお互いを良く知っているつもりですが、知り尽くしているわけではありません。今でも新しい発見があります。子どもたちがみな成人して、いわゆる子育ては終わっていますが、今でも父親であることを学ばされています。牧師としても育てられている気がします。一人のクリスチャンとして自分を見たときにも、5年前と今では、確かに違います。いろいろな意味で受け止め方や考え方、判断の仕方が変わって来ていますし、生き方も変えられているように思います。未だに発展途上で、変えられつつあるというのが実感です。自分自身も夫婦関係も、親子関係も、教会も。さて、私はどのように夫であること、父親であることを学んできたのでしょう。また、学んでいるのでしょう。すべて関係を通して、生活を通して学んでいることです。



主イエスは、最初の弟子たちを召された時に「わたしについてきなさい。」と語られました。主イエスの呼びかけに答えた弟子たちの学びはその時から始まったのです。もちろん先生は主イエスです。弟子たちの学校はどこにあったのでしょう。彼らの学校は一つの場所にはありませんでした。ある時には、カナの婚礼であったり、サマリヤの井戸の傍らであったり、ベテスダの池であったり、お腹をすかせた群衆のいる荒野であったり、嵐のガリラヤ湖であったり、ゲラサの墓場であったり、姦淫の女が引き出された広場であったり、主イエスの親しい友人ラザロが葬られたベタニアの村であったり、主が自分たちの足を洗われ、いっしょに最後の食事をした二階の広間であったり、兵士に捕らえられた主イエスを残して逃げ出したオリーブ山であったり、あの三本の十字架が立てられたゴルゴタの丘であったり、空の墓であったり、意気消沈している自分たちの前に主が現れたあの部屋であったり、主が天に昇られたオリーブ山であったり、主イエスがおられたところに彼らの学校があったのです。



Ⅱ.弟子とは、キリストを知りたいと願う人



私たちは興味や関心のあることであれば、もっと知りたい、もっと身につけたいと思って勉強します。だれか尊敬する人や、憧れを感じる人がいれば、その人から学びたい、またその人のようになりたいと願います。そのようなモチベーション(動機)があると勉強を持続していく大きな助けになります。何も興味の持てないものをただ勉強しなければならないとしたら苦痛にしかなりません。弟子たちが主イエスの呼びかけに答えてついていったのは、この人のことをもっと知りたいと思ったからです。彼らが、主イエスから離れなかったのは、また、離れても戻ってきたのは、この方の中にどんなものにも代えがたいすばらしい宝があることを見出したからです。



Ⅲ.弟子とは、キリストのこころを求め、キリストとともに働く人



「神さまの御心はどうしたらわかりますか?」という問いかけをときどき耳にします。でも、そのような疑問に注意して耳を傾けると、単に「神さまは私が知りたいことを教えてくれない」あるいは「神さまは私の語ってほしいことを語ってくれない」と言っているように聞こえることがあります。まず大切なことは「神さまの御心」とは「神さまが私に語っておられること、神さまが私に知ってほしいこと、神さまが私に伝えたいこと、神さまが私に行ってほしこと」なのであって、「私が神さまに語ってほしいこと、私が神さまに教えてほしいこと、私が神さまに行ってほしいこと」ではないということです。もう一つ大切なことがあります。神さまの御心の大切な部分はすでに私たちに語られているということです。語られているのに耳を傾けない。語られているのにそれを行っていないとしたらどうでしょう。



主イエスはこのように言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネの福音書8章31節)私たちが手にしている聖書には、神の子とされた私たちに対するたくさんの素晴らしい約束と、命令が書かれています。私たちが神のみ心を知るための唯一の方法は、みことばを受け入れてそれを行うことです。主イエスは「いのちのパンであるわたしを食べなさい。」という言い方でこのことを弟子たちに命じておられます。主イエスはこう言っておられるのです。「私の語ったことばをそっくり受け入れて、良く消化し、自分の身体の一部分にしなさい。」



聖書の教える「信仰」とは「信じて、受け入れる」だけでなく、「それを行う」ところまでを含んでいます。「あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」主イエスは、この二つの命令に聖書のすべての命令が集約されており、一番大切な命令だと教えています。与えることなしに、与えることの豊かさを知ることはできません。赦すことなしには、赦しのもたらす開放を知ることはできません。近くにいる人を慰め、励まさすことなしに、慰めや励ましが何をもたらすかを知ることはできません。神を愛するとは、神が愛している人々を愛していくことです。その中には自分自身も含まれているのです。私たちはわずかしか持っていないかもしれませんが、そのわずかなものを神さまのために使っていきましょう。