イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2018年12月30日日曜日

神の国に生きていますか?


Ⅰ.大切なテーマ

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(使徒の働き1章3節)

主イエスが、天に帰られる前に一番大切なこととして語ったテーマは「神の国」でした。想像してみてください。40日間、同じで主題でメッセージを聞かされたとしたら。みなさんはどう反応するでしょうか?

復活された主イエスが改めて弟子たちに「神の国」について教えられたのは、これから宣教の働きに進んで行く弟子たちにとって、それが必要不可欠であったからです。この時の弟子たちは「神の国」を充分理解しているとはとても言えない状態でした。

Ⅱ.神の国とは?

メッセージの中で何度も語ってきたことですが、もう一度質問させてください。「神の国」とは何でしょうか?そうです。「神の国」とは「神のご支配」のことです。「神の国はどこにあるのか?」と問われるならば、「王であるキリストのご支配されるところ。」がその答えとなります。では、もう一つ質問させてください。私は、あなたは「神の国」に生きているでしょうか?主イエスは、四十日の間、弟子たちに「神の国」すなわち「王であるキリストのご支配」の中に生きることの大切さとその意味について教えられたのです。

主イエスが公生涯に入られてから、十字架にかかられるまで語られていた福音のテーマも「神の国」でした。有名な個所を一つだけあげていっしょに考えたいと思います。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイの福音書6章33節)

Ⅲ.神の義とは?

「神の国」を求めるとは「王なるキリストのご支配の中に生きる」ことを求めることです。では「神の義」とは何でしょうか?「私たちの身代わりとなって死なれ、新しいいのちを与えるためによみがえられたキリストを信じることによって無条件で赦され、神の目に義なる(正しい)者とされる」・・・というのはもちろんその通りです。でも、ここで主イエスが命じているのは、そのあとに続く積極的な生き方のことを指しているのだと思います。その積極的な生き方とは主の祈りにあるように「神のみこころ」を私たちの日常に求める生き方です。私たちが「神のみこころ」を行う者となり、私たちを通して、神がご自身のみこころをこの地上に成し遂げる、そのように生きることです。もう一度質問させてください。そういった意味で、私は、あなたは神の国に生き、神のみこころを求め、それを行う者となりたいと願っているでしょうか?

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイの福音書6章10節)

Ⅳ.神の国に現わされる力

私たちは私たちの置かれている状況の中に、神の力が現されるように願いまた祈ると思います。しかし、「神の国」と「神の義」を真剣に求めているかが問題です。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とは「キリストのご支配のもとに生きることを願い、神のみこころを求め、それを行う者として生きる選択をすること」です。「第一に求めなさい。」とはそれを最優先していきなさいという命令です。私たちの王は独裁者ではありません。恵みと愛をもって私たちとともに神の国を治めたいと願っておられるのです。私たちがその願いを共有するときに、そこに神はご自身の全能の力を現してくださるのです。

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ人への手紙1章19節)

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(第二歴代誌16章9節)

2018年12月23日日曜日

この方こそキリストです


◆ルカの福音書2章1節~20節
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行っ彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

イエス・キリストは神様がすべての人にお与えになった、また私たち一人ひとりにお与えになった最高のプレゼントです。この方のうちにすべての祝福が詰まっていると聖書は教えています。壊れた私たちに対する癒しと回復の約束、神様とのうるわしい交わり、豊かな赦しと恵み、そしていのち・・・。神のひとり子は私たちのために生まれ、十字架の上でご自身を犠牲にして罪の束縛から解放し、それだけではなくすべての祝福を受ける特権を与えてくださいました。このことを覚えることに、クリスマスの本当の意味があると思います。

◆ヨハネの福音書1章16節
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

2018年12月16日日曜日

良き牧者の声


「救い主は、私たちと語り合うためにこの地上に来てくださった。」それが今日のメッセージです。

◆ヨハネの福音書10章1節~11節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

Ⅰ.羊には牧者の声を聞き分ける能力がある

家畜である羊は外敵から身を守るすべを持たない無力な動物ですが、ただ一つすぐれた能力が与えられています。それは自分の飼い主である牧者の声を聞き分ける能力です。神の民である私たちは、良き羊飼いである主イエスの羊です。主イエスの羊であるならば、主イエスの声を聞くことができると聖書は教えています。それをそのまま受け取るべきではないでしょうか。

祈ること、聖書を読むことが大切であるのはもちろんです。しかし、私たちは、そこにどれほど注意を向け、そこからどれほど聞き取ろうとしているでしょうか。祈りを通して、また聖書のみことばを通して良き牧者の声を聞き、そしてそれだけでなく毎日の生活のすべての場面で、良き牧者である主イエスの声を聞きながら歩むこと、その習慣を身に着けることが大切です。

◆ヨハネの福音書1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

主イエスがこの地上に来てくださった、生まれてくださったのは、神の恵みのことばを私たちに伝えるためです。神の子とされた者たちには、遠慮なく父の名を呼べる特権だけでなく、父の声を聞くことのできる特権も与えてくださっているのです。そうでなければ特権とは言えないはずです。最高に良き方である天の父に呼びかけ、なんでも訴え、同時に、今私たちに語りかけている恵みに満ちたメッセージを聞き取ることができるからこそ、天の父との親しい交わりの中に生きることができるのです。そう約束されているわけですから、そのまま受け取るべきではないでしょうか。それが、豊かないのちを受け取って、本当の意味で豊かに生かされることの秘訣です。

たしかに私たちの思いの中では、いろいろな雑音が響いています。また、深く根を張った否定的な思いに占領されているかもしれません。そのため神のことばをそのまま受け止めることがとても困難に思えるのです。しかし、聖書は単純に、羊は牧者の声を知っている、その声を聞き分ける、その声について行くことができると、なぜならそれが羊にはじめから備わっている能力(本能)だからだと教えているのです。その真理を選び取った時に、少しずつですが、すべてが変わり始めます。
Ⅱ.単純な原則

静まって祈るために、たまに断食しても良いですが、それよりも日常の中で、朝起きた時から、夜布団に入って眠りにつくまで、良き羊飼いである主イエスとの対話の中に生きること、その習慣をつけることが重要です。習慣にするための、いくつかのステップがあります。まず、1.羊である私には良き牧者である主イエスの声を聞く能力があることを認める。次に、2.良き牧者の声に注意を向け、耳を傾けて生活する。3.そして、良き牧者の声の語りかけに従う(聞いたことを実行する。)単純に言えば、そのように生きることがキリストの平安とそれに伴う祝福の中に生きる秘訣だと聖書は教えています。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ人への手紙3書15節)

問題は、先にも述べましたが、神の子どもとされている私たちの心が、キリストの平和以外のもので支配されていることにあります。長い間、私たちのこころを支配してきた要塞のような否定的な思いを、私たちが自分の力で取り除くことはできません。解決は良き羊飼いである主イエスの声に耳を傾け、そこに意識を向けるところから始まります。主イエスのことばには私たちを束縛から解放し、自由にする力といのちが宿っているからです。

Ⅲ.豊かないのちを受け取るために

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネの福音書10章10節)

盗人とはもちろん悪魔のことですが、私たちから何を盗むというのでしょうか。悪魔が盗もうとしているものは、良き牧者である主イエスが私たちに与えようとされている「豊かな祝福に満ちた約束」、「神のいのちにあふれた人生で」す。「羊飼いの声を聞くことができないと信じ込ませれば、その声に注意を向けないようにさせれば、羊は豊かないのちを受け取ることができなくなる。」そのことを悪魔はよく知っているのです。

ご利益と祝福は似て非なるものです。人間がご利益を受けるとき、だれが自分にそのご利益を与えたのかほとんど関心がありません。そこに親密な関係を見つけることはできません。一方、聖書の教える祝福は創造主との親密な関係の中にしか見出すことはできません。また、聖書の教える祝福は、それを受け取る人自身がほかの人々への祝福となるという点でも違っています。良き牧者である主イエスを通して、天の父がどんなに恵みに満ちた方であるかを知り、その親しい交わりの中に生きるときに、私たちは神のいのちに満たされ、周囲にいる多くの人々の祝福になることができるのです。それは良き牧者である主イエスの声を聞いてついて行く人々だけに約束されている豊かな祝福です。

小さなところから始めていきましょう。良き牧者である主イエスは、今日もあなたに何かを語りかけているはずです。あなたを通して、たくさんの人たちにご自身の恵みを伝えたいのです。あなたを通して渇いた人々を癒し、あなたを通して囚われた人々を開放し、あなたを通して人々を豊かに祝福し、そこに神の国を広げたいと願っておられるのです。静かに語りかけておられる良き牧者の声に耳を傾け、あなたに何を語りかけておられるのか聞いてみませんか。

2018年12月9日日曜日

弟子としなさい


イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(
マタイの福音書28章18節~20節)
         
前回、前々回のメッセージで、キリストにある私たちのアイデンティティについて触れましたが、今日も引き続いて、私たちのもう一つの大切なアイデンティティ「キリストの弟子」であることについて聖書から学びたいと思います。また、その中で、私たちのグレイスハウスの近況、私たちが大切にしている価値観や教会のあり方についても分かち合いたいと思います。
                                       
Ⅰ.キリストの弟子として生きる教会

教会(私たち)はキリスト招かれ、弟子となるように召されています。

新約聖書の原語ギリシャ語では、弟子を表す言葉として、学ぶ者を意味する「マテーテース」が使われています。キリストの弟子となることを願うのであるなら、私たちはキリストに聞く者、キリストから学ぶ者、キリストに従う者とならなければなりません。キリストを主として受け入れた時に私たちは恵みによって、神の子どもとされる特権が与えられますが、それは弟子としての歩みが始まる第一歩でもあります。私たちにはその両方のアイデンティティが与えられているのです。天の父を「お父さん」と呼べる神の子としてのアイデンティティは、キリストを主として信じる者に与えられている決して変わることのない永遠のアイデンティティです。同時に、私たちはこの地上で、弟子として主であるキリストに従って、その働きを担って行く召しと責任が与えられています。キリストの召しに応えて生きる人生には、確かに厳しさやさまざまなチャレンジが伴いますが、それらに勝る喜びがあることを聖書は証しています。信じて従う者に神様は力を与えてくださるのです。その力とは、主にある喜びと聖霊の満たしです。

「 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(使徒の働き13章52節)

Ⅱ.キリストから遣わされ教会

教会(私たち)は失われた人を探して救いに導くためにこの世界に遣わされています。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19章10節)

主イエスは、「失われた人を捜して救うために来たのです。」と言われました。聖書は、キリストのからだである教会も同じ使命を託されてこの地上に置かれている(遣わされている)と教えています。もし、そうであるならば、「私たちが生かされているのは、失われた人を探してキリストに導くためです。」「教会がこの世界に遣わされているのは、失われた人をキリストに導くためです。」と言わなければなりません。

私たちは、教会の外に目を向けているでしょうか?私たちの住む町に、またそこに住む人々に関心を払っているでしょうか?主イエスのように失われた人を探しているでしょうか?私を遣わしてくださいと祈っているでしょうか?

Ⅲ.キリストの弟子を育て送り出す教会

教会(私たち)はキリストの弟子を育てこの世界に送り出すために生かされています。

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネの福音書20章21節)

「教会を安心できる場所にしたい。」というのは、教会が始まった時から、私のまた皆さんの願いであったと思います。グレイスハウスがそのような教会になっているなら、幸いだと思います。でも、同時に教会は弟子たちを育てて送り出す場所でなければなりません。グレイスハウスが関係を持っているグループ、教会、宣教団体、またリーダーたちは、みなこの意識を持っています。そのような人々と関係を築いていくことが、これからの私たちにとって、また次の世代にとって、とても大切だと思います。

今まで、良い友人たちに恵まれてきたことを神様に感謝しています。これらの優れたしかし謙虚なリーダーたちとの関係によって、たくさんの励ましを受け、たくさんのことを教えられてきました。また、育てられてきたのだと思います。メンターのような年配の友人たち、同年代の友人たち、また私よりも若い友人たちもいますが、たえず彼らから学びたいと思っています。友人としてお付き合いしていても、彼らに対して「生徒」のような気持ちを失いたくないと思っています。学ぶ姿勢があって初めて、人々の中に自分よりもすぐれたものを見つけることができ、そこから吸収することができるからです。

話すことよりも聴くこと、教えることよりも学ぶことの方がはるかに大切です。キリストの弟子として生きることを望むのであるならば、まず聴く者となり、学ぶ者となることです。

2018年12月2日日曜日

新しい人


前回は、コロサイ人への手紙3章(12節~17節)からキリストの平和についていっしょに学びました。その中で、12節にの「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」を引用して、キリストにある私たちが、神の目にどのような存在であるかについて少し触れました。今日は同じ3章の9節、10節から、どのようにしたら「私たちに与えられているキリストにあるアイデンティティ」の中に生きられるのかもう少し踏み込んで考えたいと思います。

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
(コロサイ人への手紙3章9節~10節)

エペソ人への手紙4章(22節~24節)では、「脱ぎ捨てるべき」、「新しい人を身に着るべき」と命令文で書かれていますが、コロサイ人への手紙では「、古い人を脱ぎ捨てたこと」、「新しい人をきたこと」はもうすでに起こった恵みの事実として書かれています。「キリストにある新しいアイデンティティが、与えられているのだから、それにふさわしく生きなさい。」というのがパウロの私たちに対するメッセージです。

Ⅰ.「古い人を脱ぎ捨てた」「新しい人を着た」

コロサイ人への手紙では、一度きりの繰り返されない行為として起こった事実として、「古い人を脱ぎ捨てた」「新しい人を着た」と書かれています。キリストのあがないによって、私たちのアイデンティティはまったく変えられているのです。聖句を二つだけ引用したいと思います。(※アイデンティティ=自分がどのような存在か)

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
(ヨハネの福音書1章12節)

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
(コロサイ人への手紙1章13節)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙第二5章17節)

神の一方的な恵みによってキリストを信じる者たちに与えられたアイデンティティについて教えている箇所が、ほかにも多くありますが、聖書を開いてぜひ探してみてください。「人間は自分で自分を根本的に変えることはできない。自分を救うことができない。」というのが聖書の教えです。もし、できるのならば、キリストは私たちのために十字架にかからなくてもよかったはずです。あなたが、もしキリストを救い主として信じているのならば、それまでの古いあなたはキリストとともに十字架にかけられて死んでいる、そして今のあなたには、復活のキリストにあって新しいいのちが与えられている、それが聖書のメッセージです。

Ⅱ.「古い人を脱ぎ捨てなさい」「新しい人を着なさい」

一方で先に述べたように、エペソ人への手紙では、「古い人を脱ぎ捨てなさい」「新しい人を着なさい」と命令文で、弟子たちに呼びかけています。

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
(エペソ人への手紙4章22節~24節)

キリストを主として信じる者たちのアイデンティティ、またその立場は救いを通してまったく変えられているのです。暗やみの圧政から、恵み深いキリストのご支配の中に、罪の奴隷から、神のしもべに、神の子どもに、・・・・・数え上げたらきりがありません。「古い人」とは、ほろびの運命にしばられ罪の奴隷であったかつての私たちの姿です。「新しい人」とは、天にあるすべての祝福を受け継ぐ神の相続者として召されている今の私たちの立場です。そのようなすばらしい立場、アイデンティティがキリストを信じるすべての者に、すでに与えられているのですが、私たちはそれを握って生きているでしょうか?パウロはエペソの弟子たちに、また私たちに、「神が代価を払って与えてくださった新しいアイデンティティの中に日々自覚をもって生きなさい。」と呼びかけているのです。「古い人を脱ぎ捨て」「新しい人を着る」、それはすでに恵みによって、私たちの身に起こったことなのですが、その真理を選び取って生きるかどうかは私たちの選択にかかっています。信じるとは、みことばで自分の思いを満たし、そのみことばを告白し、そのみことばに生きることです。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
(ペテロの手紙第一2章9節)

2018年11月11日日曜日

創造的な役割


エペソ人への手紙の中から、私たち(教会・キリストのからだに属する者たち)がどのような存在であり、何のために召されているのか、また委ねられた働きがどのようなものであり、それ成し遂げる力がどこから来るのか、ともに学びたいと思います。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
(エペソ人への手紙1章4節~5節)

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ人への手紙1章17節~19節)

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ人への手紙2章10節)

Ⅰ.揺るぎない選びと召し

「この世界を造られた神さまが私たちを選んでくださった。神さまは私たちを決して手放さない!キリストにあって、神さまは私たちをご自身の願ううるわしい姿に造り変えてくださる。」

私たちは、キリストにあって揺るぎない選びの中に召されています。「創造主である神ご自身が私たちを創造とあがない、救いのご計画の中に生きるように造ってくださった。」それが聖書のメッセージであり、そこに私たちが生きる目的が啓示されています。イエス・キリストを通して、私たちが「神がお造りになった本来の姿、神の子としての形」に回復され、父なる神との聖い愛の関係の中に生きるようにはじめから計画されていたと聖書は教えています。私たちが創造された目的の背後には、創造主の強い意思が働いています。そして、創造主は硬い決意をもって私たちをキリストにあって完成しようと、今も、私たちのうちに働いておられるのです。神の決意を知り、心から受け止めていくことが、神が私たちにゆだねられた役割(ミッション)を果たしていくための第一歩です。私たちは何の目的もなく偶然ここに生かされているのではありません。神によって創造され、キリストのうちに選ばれ、キリストによって新しいいのちと役割(ミッション)が与えられ、その目的を果たすために、神の栄光を現すためにこの世界に遣わされているのです。

私たちは「神の選びと召し」の中に生きようとしているでしょうか?

Ⅱ.神の作品としてのアイデンティティと創造的な役割

「神さまは私たちを素晴らしい作品として、愛情を込めて造ってくださった。救いの計画の中にあって、私たちには素晴らしい役割が与えられている。」

私たちは、キリストにあって神の作品としてのアイデンティティと創造的な役割(ミッション)が与えられています。私たちは「神の作品」であって、「神の製品」ではありません。機会的に大量生産された「モノ」ではなく、一つ一つ愛情を込めて丹念に注意深く造られた存在なのです。存在の目的が与えられていると同時に、愛する対象として造られた存在なのです。「神が、キリストのいのちと引き換えに、私たちを買い取ってくださった。」と、聖書は教えています。私たちは神の目にそれほど高価で尊い存在(イザヤ書43章4節)なのです。ものの価値は、それを手に入れたいと願っている人がどれほどの代価を支払うのかによって決められます。

神が私たちにゆだねられた役割(ミッション)を果たしていくためには、私たちがどのような存在であるかを知らなければなりません。「神は・・・その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」とありますが、神が私たちにゆだねられている役割について語っています。花瓶が花を生けるために、コーヒーカップがコーヒーを飲むために造られているのと同じように、私たちが神の作品として造られているのにも目的と役割があるのです。私たちが創造された目的(神の選びとご意思)を受け止め、私たちの存在価値(アイデンティティ)と神に与えられた役割(ミッション)を知り、そこに生きるときに、私たちはほんとうの意味での充足感と幸福を味わうことができるのです。私たちにゆだねられている役割は、キリストを通して、罪の中に死んだこの世界に神のいのちを広げ、そこにうるわしい神の栄光を現す創造的な働きです。

私たちは、キリストが私たちのために支払われた代価の意味を忘れていないでしょうか?キリストにある私たちの価値を知り、与えられた役割を果たしたいと願っているでしょうか?

Ⅲ.私たちを通して働く神のすぐれた力

「神さまの願いを受け止めて、それを実行しようとするときに、神さまは全能の力を働かせて、私たちがそれを成し遂げるのを助けてくださる。」

神のご計画を実現するために、神ご自身が私たちを通して力強く働いてくださいます。神のご計画とは、キリストのからだである教会(私たち)を整えやがて完成させること、そしてその教会(私たち)を通して、この地上に神の国を広げていくことです。神の力は教会の中に働いて私たちを建てあげ、また教会を通して働き、「悪い者」の支配するこの世界(Ⅰヨハネ5:19)に神の国を広げて行くのです。神の力はその二つの領域で現されます。最終的に神の国を完成させることのできるのは王なるキリストだけです。神の同労者(キリストのパートナー)として召されている私たちに求められているのは、王なるキリストに対する服従です。しかし、この服従の中に自由と解放が約束されていると聖書は教えています。なぜなら私たちの主は、義なる方、聖い方であると同時に、恵みとあわれみに満ちた方だからです。創造主である神は、硬い決意と情熱、また忍耐をもって、ご自身の永遠の救いの計画を完成しようとされているのです。私たちに、私たち一人ひとりにその役割の一端がゆだねられています。神は罪の中に埋もれていた私たちを探して選び出し、キリストの血によって私たちを買い取り、清め、ご自身のからだである教会の一部分として召し、忍耐をもって私たちを整え、建てあげ、なおかつまだ完成されていない私たちを通して神の国をこの地上に広げようとなさっているのです。私たちが自分自身を、創造主のみ手に差し出していくときに、神は私たちの想像を超えた方法で私たちを用いてくださいます。

「神が、神を信じる私たちを通して、ご自身の力を働かせ、神の計画を実現しようとされているのか」それとも、「私たちが、自分の計画を実現するために、神の力を用いようとしているのか」どちらでしょうか?
私たちを愛する全能の父を信頼し、私たち自身を神の働きの器として、主のみ手にささげていきませんか?
神は、神を信頼し、み心を求める人を通して、ご自身の力を現してくださいます。

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
(イザヤ書6章8節)

2018年11月4日日曜日

真理はあなたがたを自由にする


私たちは、ほんとうの意味で私たちを自由にする神の真理と神の恵みを必要としています。

イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
(ヨハネの福音書8章31節~36節)

Ⅰ.だれでも自由になりたい

ここにいる皆さんはだれでも自由でありたいと願っておられると思います。自由の反対は束縛や奴隷状態にあることです。だれもそのようなことは望みません。どんなに快楽をもたらすものであったとしても、何かに依存している(中毒になっている)としたら、そのような状態は私たちにとって自由であるとは言えません。中毒のようなものでなかったとしても、恐れや罪責感、赦せない心、責任転嫁や正当化、それらも私たちの心から自由を奪ってしまいます。

主イエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と言われました。死からよみがえられ、この世界を王として収めておられる主イエスは、私たちを、すべての束縛から開放して、ほんとうの自由を与えてくださると語っておられます。

Ⅱ.罪の奴隷

主イエスはこう語っておられます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」これを聞いたユダヤ人たちは「私たちだれの奴隷になったこともない。(自由だ。)」と言って反論します。主イエスが与えたいと願っておられた「自由」は、彼らの主張していた自由とはまったく性質のことなる「自由」でした。

神さまとの関係以上に他のものを優先して求める人間の動機に「罪の本質」が隠れています。

主イエスは、すべての人が罪の奴隷であると語っています。ただ悪い行いをすることだけが罪ではありません。むしろ、悪い行いをさせようとする「私たちのこころに潜んでいる力」に「罪の本質」があります。罪人であるから罪を犯すのです。

Ⅲ.罪が働く二つの方法

罪は二つの方法で人間を奴隷にします。解放(自由)もまた二つの方法でもたらされます。まず、罪は私たちの動機や願望に働きかけます。神との関係以上に、私たちが何か他のものを優先して求めているならば、それは罪であると聖書は教えています。

次に、罪は奴隷状態となった私たちを最終的に滅びに導きます。何かが介入しない限り、その運命は変わりません。罪は私たちの人生を支配し、やがて滅びをもたらします。キリストが来られたのは、呪われた運命にある人間をその束縛から自由にするためです。

Ⅳ.罪の支配と罪のもたらす滅びからの解放

主イエスだけが、罪の支配と罪のもたらす滅びから、その呪われた運命から、私たちを自由にしてくださることのできるお方です。十字架の上でのろわれた者となり、罪のないご自身の血をもってすべての人のために代価を支払い、私たちを買い取ってくださったのです。

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
(ガラテヤ人への手紙3章13節)

私たちの身代わりとなられた主イエスだけが、私たちを「罪の支配と罪のもたらす滅び」から開放し、ほんとうに自由にすることができるのです。

Ⅴ.自由を理解する

私たちが自由を味わうためには、次の4つの要素が必要です。
1.願いを持っていること。
2.願いを実現する機会が与えられること。
3.願いを実現する能力があること。
4.願いを実現したあとに幸せでいられること。

スカイダイビングを例に取って考えてみましょう。パイロットをしている友人の誘いで、あなたが長い間夢見ていたスカイダイビングができる機会がとうとう与えられました。ところが飛行場に向かう途中で、車が故障して動かなくなってしまい、計画をキャンセルしなければならなくなってしまいました。どんなに願っていても、機会がなければ自由を味合うことはできません。

では、事故に合わずに無事、時間通り空港に到着したとします。よろこんで飛行機に乗り込んだのですが、今まで、まったくスカイダイビングのトレーニングを受けていなかったことがわかり、降ろされてしまいます。機会があっても、能力がなければ自由を味合うことはできません。

では、夢を実現するために必要なトレーニングを受けてから飛行場に行ったとしましょう。パラシュートを付けて、飛行機に乗り込み、高度3000メートルまで上昇します。ドアが開いていよいよ飛び降りようと下を見た瞬間に恐怖が襲ってきて、とても飛び降りる気持ちに離れません。機会はあります。能力もあります。しかし、教官に後ろから突き落とされて、無理やりスカイダイビングをさせられているのであったら、それを自由であると言うことはできるでしょうか。

では、願いがあり、機会もあり、必要な能力も身に付け、何も妨げるものがなかったとします。十分にトレーニングを受けて自信もあったので、ワクワクしながら開いたドアからためらいなくジャンプしたとしましょう。だんだん近づいてくる地上の景色を眺めながら、大空を飛ぶ鳥のような気持ちになって、自由を満喫します。ただし、あなたの身につけているパラシュートに欠陥があって、開かないことに気づいていないのです。確実な死がまっているこの状態を自由と言うことができるでしょうか。

Ⅵ.キリストだけが私たちを自由にする

私たちにとってのパラシュートは救い主キリストです。私たちを死とほろびに向かって引っ張る罪の強力な力はキリストの死と復活によって打ち砕かれているのです。自分の力では逃れることのできないほろびの運命から、キリストは十字架の死によって私たちを開放してくださいました。キリストによって、救われた私たちには新しい使命と新しい願いが与えられています。「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

この世界が与える自由は、つかの間の喜びを与えてくれるかもしれませんが、霧のようにあとかたもなく消えてしまいます。しかし、主イエスに信頼し、主イエスをなによりも尊い宝とする者たちは、罪の力から開放されて鷲のように大空を舞い、永遠の喜びと自由の中に生きることができるのです。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)

2018年10月21日日曜日

「きよい心」と「ゆるがない霊」


神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
◇     ◇     ◇
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
◇     ◇     ◇
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51章1節~2節、10章~13章、17章)

詩篇51篇は、大きな罪を犯したダビデが神に立ち返ろうとする悔い改めの祈りです。ここから、どのようにしたら「きよい心」と「ゆるがない霊」を自分のものとすることができるか、その原則を学びましょう。

Ⅰ.ダビデの罪と回復

神はご自身の約束を成就するために、ダビデを選び、ダビデを通してイスラエル王国を確立します。しかし、最高権力者としてその全盛にあったときに、ダビデは誘惑に負けて大きな罪を犯します。忠実な部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その結果彼女は妊娠するのですが、それを隠蔽するためにウリヤを激戦地に送り出して戦死させます。これを嘆かれた神は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わして彼の犯した罪を指摘し、その重大さを自覚させ悔い改めに導きます。(第二サムエル記11章~12章)

権力を乱用し、姦淫を犯し、それを隠蔽するために殺人を犯す。そのような大きな罪を犯したにもかかわらず、ダビデは「神ご自身の心にかなう人」(Iサムエル13:14、使徒13:22)と呼ばれ、神に忠実に歩んだ偉大な指導者の一人として聖書に紹介されています。ダビデの人生は、神の赦しと恵みの深さ、真摯な悔い改めがもたらすたましいの回復がどのようなものであるかを私たちに教えてくれます。

Ⅱ.罪の自覚

犯した罪の深さを知ったダビデは、自分の救いがたい実情を正直に認め、神の恵みとあわれみに目を向けました。本当の意味での罪の自覚がないと、私たちは自分自身を自分の力で修正したり、改善したりできるものと錯覚してしまいます。ダビデのように霊的に盲目になれば、罪の自覚さえ困難になります。預言者ナタンは罪の中にいるダビデに厳しく対峙しますが、それもダビデを罪の自覚への導こうとする神のあわれみから出たことです。

主イエスは次のように言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マルコの福音書2章17節)


たしかにクリスチャンである私たちは、罪赦され救われて神の子とされているでしょう。でも、霊もこころもからだも完全に回復されているでしょうか?もう主イエスのいやしを必要としていないのでしょうか?もう罪の性質がなくなったのでしょうか?それとも、まだどこかに病んだところ、傷んだところがあり、赦されなければならない罪があるのでしょうか?主イエスはいやしを必要としている人だけをいやし、罪の自覚のある人だけを赦し、回復することがおできになるのです。

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
(詩篇51章1節~2節)

Ⅲ.「きよい心」と「ゆるがない霊」

ダビデは真摯な悔い改めを通して神に立ち返りましたが、さらに切実に求めたものがありました。それは「きよい心」と「ゆるがない霊」です。ここで「造る」と訳されている動詞は、ヘブル語の「バーラー」です。「はじめに神が、天と地を造られた」(創世記1章1節)でも使われている言葉です。「自分が失ってしまったもの、もはや自分の心に全く見いだせないものを神はお造りになることができる。」それがダビデの信仰でした。神の前に「きよい心」、誘惑にさらされても「ゆるがない霊」、どちらも人間の努力で手に入れることのできないものです。神の霊、聖霊だけが私たちのうちにお造りなることのできるものなのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
(詩篇51章10節~13節)


私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(コリント人への手紙第二3章18節)

Ⅳ.砕かれたたましい

悔い改め回復される前のダビデのたましいがそうであったように、神との親密な関係を失ったときに私たちのたましいも頑なになります。頑ななたましいは自分の実情を認めることができません。目をそむけてしまったり、自分の力で解決できるかのようにふるまったりしてしまうのです。「砕かれたたましい」とは、神の前に自分の無力と実情を認めた人だけが持っている心です。「砕かれたたましい」だけが、真の悔い改めへ、真の回復へ、私たちをあわれみに満ちた父なる神のもとへと導いてくれる案内人なのです。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51章17節)

2018年10月14日日曜日

収穫の働き手



ラルフ・モア先生の直弟子の一人ジョン・ホナルド先生を水曜日のスモール・グループにお招きしました。ジョン先生は、ご自身のお証しを交えて「出て行く教会」をテーマに4つのポイントでお話ししてくださいました。今日は、ジョン先生が語られた4つのポイントをもう少し掘り下げて、皆さんといっしょに学びたいと思います。


その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。
そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。
財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。
どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。
もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。
どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。
そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。
(ルカの福音書10章1節~9節)

主イエスが七十人の弟子たちを町や村へ遣わされたように、キリストの弟子とされた私たちも遣わされているのです。私たちが生活しているその場所が、神さまによって私たちが遣わされた場所です。私たちの周りにはそこで生活している人々がいます。私たちの暮らしている地域社会、学校、職場、国家。主イエスはそこが、収穫を待つ畑であると教えています。


「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」主イエスの語られたこのことばから、「収穫の働き手」について考えてみたいと思います。七十人の弟子たちも「収穫の働き手」でした。



1.神の平安を祈る



関心を向けずに、何かのため、だれかのために祈ることはできません。また、神さまに対する期待がなければ、関心を向けて祈ることはできません。さらに、神さまの願いを受け取らなければ、期待を持って祈ることはできません。



主イエスによって遣わされた七十人は、訪れる家々で平安を祈るようにと命じられます。彼らは主エスの願いを受け取り、訪れる町に関心を向け、神さまに期待して、そこに住む人々に平安がもたらされるようにと祈ったのです。神の平安には、霊的な空気を一変させる力があるのです。収穫の働き手とは祈りによってこの地上に神の平安をもたらす人たちのことです。※平安については最後の引用を参照ください。



2.交わりを持つ



主イエスは平安の子の家に留まって交わりをもつように(関係を築くように)と命じます。平安の子とは、弟子たちの祈りを、心を開いて受け止め、神の国の福音の橋渡しとなる人々のことです。私たちも、遣わされた場所で平和の子を探し、その人たちと信頼関係を築くべきです。ここでは平和の子に提供されたものを食べるように命じていますが、私たちの場合は、逆に平和の子を食事に誘ってもてなすこともあると思います。主イエスがたびたび訪問先で友となられた人々と食事を取られ時間をすごされたように、私たちにとっても「食事をともにすること」が人々との関係を築く大きな助けとなると思います。収穫の働き手とは、人々に関心を払い、関わりを持ち、関係を築くために時間をともに過ごす人たちのことです。



3.必要に答える



七十人の弟子たちは出かけていく先々で病人を癒やしました。必要を見つけて、それに答えたのです。この場合は肉体の奇跡的ないやしでしたが、自分の持っている金銭や物で人々の物質的な必要を満たす場合もあると思います。新約聖書の教会はそれを実践していました。私たちも、できることはわずかですが、いろいろなボランティア活動を通して地域の必要に応えようとしています。収穫の働き手とは自分の持てる物をもって、人々の必要に答える人たちのことです。



4.キリストを証しする



主イエスは弟子たちに「神の国」について証しするように命じました。神の国とは王なるキリストのご支配のことです。キリストとともに神の国、すなわち神のご支配(あるいは救い)が地上にもたらされたのです。キリストとともにもたらされた神の国(救い)は、将来の完成に向けて、教会とともに、キリストを証しする神の民とともに広がり続けています。収穫の働き手とは収穫の畑に進んで行き、そこでキリストを証しし、その実を刈り取る人たちのことです。



(※平安について:以下2014年5月日のメッセージから)新約聖書ではギリシャ語のエイレーネーという言葉が「平安」「平和」と訳されていますが、旧約聖書の「シャローム」の持つ意味を背景に使われています。この「シャローム」はユダヤ人の間では、「平安がありますように」との意味で日常の挨拶に用いられている言葉ですが、平安以外にも、健やかであること、繁栄すること、安心できること、和解がもたらされること・・・と多様な意味を含んでいます。さらに「シャローム」は創造主である神が創り与えるものであり、何も損なわれていない100%満たされた状態をも表しているのです。
              

2018年9月30日日曜日

この道の者


イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
(ヨハネの福音書14章6節)

「わたしが道です」という主イエスのことばは、単に信じる者が救われて天国(父のもと)に行けるということだけを意味していません。むしろこの地上に生かされている間、御父とともに歩み、御父がどのような方であるかを知り、御父のこころを自分のこころとし、それを行っていく者とされることを教えています。

使徒の働きで、キリストの弟子たちは「この道の者」(9章2節)、と呼ばれています。「この道」は単なる教えではなく、復活されたキリストに従った弟子たちの生き方(生き様)そのものでした。「わたしを見た者は父を見たのです。」(ヨハネの福音書14章9節)主イエスを通して、この世界に御父の姿が現されたのと同様に、「この道の者」と呼ばれた弟子たちを通して、この世界に復活のキリストが現されたのです。教会はキリストの働きだけを担っているのではありません。キリストのからだである教会はキリストがどのような方であるか、御父がどのような方であるかを現すために、この地上に置かれているのです。私たちは「この道の者」として生きているでしょうか?

私のクリスチャンの歩みに大きな影響を与えた三人の友人(先輩)たちの証しを交えて、「この道の者」(キリストの弟子)として生きることについてみことばを分かち合いたいと思います。

1.「この道の者」とは、キリストの召しに応える者 

「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
(ヨハネの福音書20章21節)

主イエスは、地上の人生をはじめから終わりまで、御父との親密な交わりの中にとどまり続け、ご自身をお遣わしになった御父に従い通しました。「この道の者」と呼ばれた弟子たちもまたキリストの御霊によって送り出され、その導きに最後まで従い通した人々でした。

小林繁樹牧師の証し:65才で牧会を退いた後、神様の召しに答え、それ以来毎年サハリンを訪問し教会開拓を始めた方です。旧ソ連崩壊後の混乱の中で多くの若者たちが洗礼を受けてキリストの弟子となり、20年に渡る弟子作りの結果、小林先生の働きを通して60以上の教会が生まれました。4年前に昇天されましたが、サハリンの多く牧師たちが今でも小林先生を自分たちの霊的なお父さんとして尊敬しています。私の古い友人の一人でしたが、小林先生との交流を通して神さまの召しに応えることの意味について教えられました。

2.「この道の者」とは、あわれみのこころをもつ者 

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
(マタイの福音書9章36節)

口語訳では「深くあわれまれた」となっていますが、本来は「断腸の思い」に近いニュアンスの言葉です。主イエスの働きの動機は常に深いあわれみでした。「この道の者」と呼ばれたキリストの弟子たちを突き動かしていたのは、「神の国を広げたい。」という主イエスから受け継いだ情熱であり、失われた人々に対する「深くあわれみ」でした。
ロイ・アパロス牧師の証し:ロイ牧師は38年来の友人ですが、牧師と言うよりは根っからの伝道者です。近年、インドの教会はヒンドゥー至上主義のもとで激しい迫害にさらされていますが、その中でも、できる限りのことをして伝道を続けています。ロイ牧師は海外からの支援によって養護施設(現在は小学校)を作り、長年、ローカーストの子どもたち、人身売買から救出された子どもたちを引き受けて育てていました。クリスチャンのスタッフから愛情を受け、また教育を受けて、子どもたちが変えられていく姿を見ることが彼にとっての大きな励みです。一人でも多くの人に福音を伝えたい、一人でも多くの人を神の国に招き入れたいというロイ牧師の姿から「あわれみのこころ」について教えられました。

3.「この道の者」とは、教会を愛する者

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(ヨハネの福音書16章33節)

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイの福音書28章20節)

主イエスは、私たち教会がこの世界にあってどんなに励ましを必要としているかご存知です。私たちに対して、「最後まであなたたちを離れずにともにいる。」約束してくださっています。なんと心強いことでしょう。「この道の者」と呼ばれたキリストの弟子たちも迫害の中にある教会を愛し、ともに歩み、励ます人々でした。

チャーリー・タッカー牧師の証し:タッカー牧師はわたしの20年来の友人でメンター的な存在です。日本の教会を愛し、毎年、私達を訪問してくださっています。わたしがクリスチャン生活の中でもっとも困難な時期を支えてくださった信仰の友人であり先輩です。教会を始める前の数年間、非常に苦しい状況の中に置かれていました。出口の見えない数年間、タッカー牧師のことばにずいぶん支えられました。来日されたときは、わたしとの面談を優先してスケジュールに入れ、毎回ほぼ半日時間を過ごしてくださいました。「私は君の人生の旅を最後までいっしょに付き合うよ。」と言ってくれた彼のことばが忘れられません。タッカー牧師からは、ともにいること、話に耳を傾けること、励ますこと、それがどんなに人を支えるかを教えられました。

4.「この道の者」とは、神さまにこころをささげた者

この三人の友人はみな素晴らしい働き人ですが、決してパーフェクトだと言うことではないです。それぞれ欠けたところや、弱さを持った方たちです。ただ一つ共通しているのは、神さまにこころをささげた誠実な人であるという点です。「実りある働きの鍵は何ですか?」という問いに対して、ジャック・ヘイフォード牧師は『神にこころをささげ切ること』こそが、その答えです。」と答えています。「この道」をキリストとともに歩む者となるかどうかは私たちの選択にかかっています。

2018年8月5日日曜日

自分の十字架


◎もしイエス様が牧師だったら

「もし、イエス様がある教会の牧師だったら、たぶんあなたはその教会には行きたいとは思わないでしょう。」フランシス・チャン牧師の言葉です。福音書の中でイエス様が語られていることばを読むなら、チャン牧師の言おうとしていることが分かると思います。イエス様の語られる真理のことばには妥協がなく、ときに私たちに厳しい選択を迫るからです。

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
(ルカの福音書9章23節~25節)

Ⅰ.わたしについて来たいと思うなら 

主イエスが出会った人々に、「わたしについて来なさい」と呼びかける場面が、福音書の中にたびたび登場します。ついて行った人々もいれば、ついて行かなかった人々もいます。また、途中でついて行くことをやめてしまった人々も大勢います。主イエスはここで、ご自身について来た弟子たちに対して、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と、その意思を再確認しています。こう問いかけられているようにも聞こえます。「あなたは真剣にわたしについて来たいと願っていますか?」「あなたはどんな事があっても、最後までわたしについて来たいですか?」「他のだれにでもなく、ただわたしにだけついて来たいと望んでいますか?」そのように問われたら、私は(あなたは)いったいどのように答えるでしょか。

主イエスが問われているのは、「ついて来るか、それともついて来ないのか」という私たちに対する厳しい問いかけです。中間はないのです。聖書の神様は私たち人間の自由な意思と選択、決断を尊重される方です。私達に選択権を残される方です。それは神様が愛なる方であり、私たちとの人格的な交流を求めておられるからです。全能の力を使って私たちをロボットのように操作されるような方ではありません。

「ついて来たいと思うなら」と書かれているこの箇所は、「願っているなら」、「望んでいるなら」、「求めているなら」という意味で語られていると思います。私たちが主イエスに従って行きたいと願い続けるために必要なのは、この方が私たちにとってどのような方であるかを知ることです。罪のない、聖い、義なる方であると同時に、哀れみと恵み、赦しに満ちた愛なる方です。私たちを主イエスのもとに近づけるのは、この方をもっと知りたいという願い(渇き)だけです。その願い(渇き)を与えてくださるのも神様です。

Ⅱ.自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

聖書や教会と関係のないところで「十字架を背負う」というフレーズを耳にすることがあります。多くの場合、「自分に課せられた苦しい運命を背負うと」いうような意味で使われています。辞書で調べると、「耐えがたい苦難、重い負担、消えることのない罪などをいつまでも身に持ち続ける。」などと書かれています。しかし、主イエスが語られた「十字架を負う」とはそのような意味ではありません。当時の人々が「十字架を負う」という言葉を聞いて思い浮かべたのは、十字架を背負って処刑場に向かっていく囚人たちの姿でした。新約聖書の中で十字架の象徴するものの一つは死です。主イエスは「重い宿命を背負いなさい」と語られたのではなく、「自分に死になさい」と語られたのです。「自分を捨てなさい」とか「自分に死になさい」とか、どうでしょう?皆さん、聞きたい言葉でしょうか?しかし、イエス・キリストについていくためには、必ずそこを通らないとならないです。

「自分に死ぬ」とは、「自分中心の生き方」をやめる、放棄するということです。ルカの福音書のみ、「日々」という言葉が使われていますが、主イエスは、「自分に死ぬ」ことは毎日の選択であることを、弟子たちに教えられたのだと思います。すなわち「自分中心の動機、願望、主張、やり方、生き方を放棄しなければ、私に従ってくることはできないのだよ。」と主イエスは教えておられるのではないでしょうか。神様が願っておられることを祈るためには、自分の願望を捨てなければならないと思います。神様が私たちを通して伝えたいことを語るためには、自分の語ろうとすることを捨てなければなりません。また、神様が私たちを通してなさりたいと願っていることをするためには、じぶんがしたいことを捨てなければなりません。皆さん、「捨てる」のは得意ですか?自分が大切にしているもの、こだわりのあるもの、未練があるものを捨てるのは、なかなか大変です。「捨てる」と聞いただけで、私もたじろぎます。しかし、私たちに朗報があります。神様が与えようとされているものは、私たちが捨てなければならないもの、あるいは願っているものよりも遥かにすぐれているのです。

Ⅲ.十字架にある安息

「十字架を負いなさい」と言われたときに、それを背負いたいと願う人は、まずだれもいないのではないでしょうか。「ただでさえ重荷を負って苦労しているのに、この上さらに重い十字架など背負わされたくない。」そう思って当然だと思います。しかし、そう思うのは「十字架を負う」ことの意味を知らないからです。先程、説明したように「十字架を負う」とは「重い宿命を背負う」ということではありません。「自分に死ぬ」ことです。「自分を捨てる」「自分に死ぬ」たしかに厳しい要求に聞こえます。しかし、ここでつまずいてはいけません。なぜなら、続きがあるからです。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイの福音書11章28節~30節)

ルカの福音書9章で、私たちが背負うように求められているものは「自分の十字架」です。一方、マタイの福音書11章で、背負うように求められているのは「わたし(主イエス)のくびき」です。重いと思っていた「自分の十字架」はそれを背負ったときに、たましいに安らぎを与える「主イエスのくびき」へと変えられるのです。「自分中心な生き方を捨てて、主イエスについて行くなら、主イエスが私たちの重荷(十字架)をともに担ってくださり、私たちのたましいに安らぎが与えられる。」それが聖書の約束です。

2018年7月22日日曜日

からし種ほどの信仰


今日は、みなさんといっしょに「信仰」について考えてみたいと思います。先に結論から言いますが、信仰とは生ける神への信頼です。願いをかなえる方法ではありません。ご自身に信頼する人々を通して、神は制限なく力を現される。それが聖書の教える原則です。マタイの福音書から二箇所引用しますが、主イエスは「どんなことでも」と同じことばで語っておられます。

Ⅰ.からし種ほどの信仰があったら

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
(マタイの福音書17章20節)

「からし種ほどの信仰があったら・・・どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」この主イエスの弟子たち(私たち)に対する大胆な宣言を聞いて、皆さんはどう思われますか。ちなみに、「山」は当時の表現では、ほとんど不可能に見えることを指しています。私たちに信仰があるなら何でもかなうと解釈して良いのでしょうか。

ここで主イエスが問題にしておられるのは弟子たちの(私たちの)信仰の大小ではなく、生ける神への信頼があるかないかです。信仰は生ける神への信頼(関係)です。信仰は方法ではありません。私たちにとって最高に良き方である父なる神との人格的な関係なのです。

私には成人した4人の子どもたちがいますが、物心ついた時から、成人した今も、父親である私にいろいろ願い事をしてきました。父親である私は、その願いが子どもたちのためになることであり、時期が適切であると判断すれば、その願い答えてきました。子どもたちが成長するにつれて、信頼関係の中で要求に答えてきました。

もし、こういうことを言うお父さんがいたらどうでしょう。「私が子どもに新車を買い与えたのは、絶対買ってくれると、私のことを信じ切っていたからですよ。」とか・・・。「海外旅行のお金を出してあげたのは、あまりにしつこく頼むので根負けして。」とか・・・そのような関係に信頼を見出すことはできるでしょうか。

信仰には従順が求められます。「信仰があるなら、自分の願いどおりに神様が動いてくださる。」ということでは決してありません。「神の願いを自分の願いとするなら、神が私たちの信仰を通して働いてくださる。」ということだと思います。くり返しますが、信仰とは良き方である父なる神への信頼です。神の力がどれほど現れるかは、信頼している方に対して、私たちがどれほど従順であるかと比例しているように思います。

主イエスが語っておられるのは、こういうことだと思います。「父のみこころを求めて、それを行うならば、どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。なぜなら、それを行っているのはあなた方ではなく父だからです。」

Ⅱ.心を一つにして祈るなら

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイの福音書18章19節~20節)

このもう一つの箇所では、ともに祈ることについて教えています。「心を一つにして祈る」とはどういうことでしょうか。単に人間が合意して求めれば神が動いてくださるということなのでしょうか。それだけでは肝心な部分が抜け落ちていると思います。主イエスは、「わたしの名において集まる所には」と語っておられますが、それは、「わたしを主とする人々が、わたしのこころを求めて集まる所には」という意味です。まず、そこに集まる一人ひとりのこころが主である神のみこころと一つとされることが大切です。それがなされて初めて、私たちはこころを一つにすることができるのです。主である神のみこころに同意することなしに、私たちは一致することはできません。

地上に父のみこころが現されるためには、私たちの祈りが必要なのです。私たちのこころと、天の父のこころとがピッタリと重なり合うときに、神はご自身のすぐれた力を、制限なく現してくださるのです。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ人への手紙1章18節~19節)

2018年7月1日日曜日

御子の血による贖い


私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ人への手紙1章7節)

◆あがないの工房

私の20年来の友人、敬愛するチャーリー・タッカー先生は、テキサスの郊外にある農場付きの家に住んでおられます。彼は「小さな」と言うのですが、一万坪近くある農場です。周辺には広大な農場が広がっているそうです。古いメンバーの方はご存知のようにチャーリー先生の趣味は木工です。時間があると、自宅にある工房(作業場)にこもって旋盤を回し、廃材を加工して、次々と素晴らしい作品を作り上げて行きます。以前、チャーリー先生が作られた万年筆をプレゼントとしていただいたことがありますが、プロの職人が作ったような見事な出来栄えでした。他にもサラダボールや聖餐式のセットなど、実用品から装飾品まで、創作の幅は広いです。チャーリー先生の作品の多くはプレゼントとして家族や親しい友人たちの手に渡っていくのですが、きっとそれも彼が楽しんで作品作りに励んでいる大切な理由の一つなのでしょうね。

ある時、そのチャーリー先生から、「日本語の看板を作りたいので、自分で調べた言葉が間違っていないか見てくれないか。」と頼まれたことがありました。彼がテーブルの上に広げたのは、工房の扉の上に付ける看板のデザインでした。そこには「あがないの工房」と書かれていました。一風変わった名前ですが、チャーリー先生がなぜ自分の工房にそのような名前をつけたのか、私にはすぐピンと来ました。

「贖い」は、日常であまり使うことばではありませんが、旧約聖書、新約聖書で何度も目にすることばです。あがないには、「あるものを代償にして手に入れる」「買い取る」というような意味があります。また「罪をあがなう」というような使い方もします。聖書で使われる「あがない」にも当然そのような意味が含まれていますが、中心的な意味において、贖うのは常に恵みに満ちた神様であり、贖われるのは罪を持った人間です。聖書のあがないには、必ず犠牲がともなうのですが、その犠牲を払われるのもまた神様なのです。つまり、「自分を造られた方である神から離れ、罪の中に失しなわれ、本来の存在価値を失ってしまった人間をあがなう(取り戻す)ために、神が犠牲(代価)を払われた。」それが聖書のストーリーです。

野原に捨てられた丸太や材木屋さんの裏庭に置かれた廃材を見つけると、チャーリー先生の目には、素晴らしい宝物のように映るのだそうです。彼は、やがては朽ちてしまうか、捨てられてしまう運命にある材木を自分の工房に持ち帰って加工し、新しいいのちを吹き込んで、素晴らしい作品へと作り上げるのです。

かつての私たち、罪の中に埋もれた私たちは、ちょうど裏庭に捨てられた価値のない廃材のような存在でした。しかし、救い主イエス・キリストが私たちを探して、見出してくださったのです。ご自身のいのちを犠牲にして、あがなってくださったのです。新しいいのちを吹き込み、ご自身の尊い価値ある作品としてくださったのです。

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
(ルカの福音書19章10節)

主イエスは、その人の過去ではなく、その人の現状ではなく、その人の中にあるこれから形作られる神の形を見ているのです。私たちは汚れて、傷ついているかもしれません。とても価値のあるような存在には見えないかもしれません。しかし、キリストの血によってあがなわれるなら、新しいものへの造り変えられ、日々、新しくされるのです。私たちはキリストの目で、自分自身を見るべきであり、また周囲の人々を見ていかなければなりません。私たちが自分や人を見て、どう感じるかが大切なのではなく、私たちの造り主である神様が、どのようにご覧になっているかが大切なのです。神の望まれる姿が未完成の私たちの中に、人々の中に隠れているのです。私たちをあがなってくださる救い主だけが、私たちを作り変えることができるのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人第二の手紙5章17節)

あがなわれた私たちには「新しく造られた者」という新しいアイデンティティが与えられています。エペソ人への手紙2章10節では「神の作品」と呼ばれています。私たちを造られた神ご自身が、私たちを価値ある存在としてご覧になり、尊い目的の中に生かしてくださるのです。その真理に生きる時に、私たちは、キリストに似た者へとさらに造り変えられていくのです。

2018年6月10日日曜日

主のもとに来なさい


あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
(ペテロ第一の手紙2章3節~6節)

Ⅰ.主のもとに来なさい

この箇所をメッセージ中で引用するのは、3度目か4度目になると思いますが、その都度、別な角度から導かれたことを語っています。今日のメッセージタイトルは「主のもとに来なさい」です。これはペテロが教会(クリスチャン)に対して呼びかけていることばです。

最近、妻と朝、公園を歩きながら祈るのを日課にしています。6キロから7キロ歩くのに1時間半ほどかかりますが、自然を眺めながら歩くとこころも落ち着きますし、部屋にこもって祈るより祈りやすいです。ときには気が重いときもありますが、「父なる神様・・・」と語りかけると、それに続くことばが出てきます。祈りは、主のもとに近づく最初の入口です。すれ違う人たちに「おはようございます!」声をかけると、そこから意外な会話に発展していくこともあります。神様との会話も、「父なる神様」、「主よ」、「聖霊様」と呼びかけるところからはじまります。神様は私たちがご自身に語りかけられるのを待っておられるのです。

Ⅱ.聖なる祭司として

旧約の時代、神殿に入って礼拝を捧げることが許されていたのは祭司だけでした。そして神殿の中のもっとも聖なる場所である至聖所に関しては、大祭司だけが、年に一度だけ入ることが許されていました。神に近づくとはそれほど神聖なことであったのです。新約聖書は、私たち救われた者が神の宮(聖霊の宮)であると教えていますが、ここで宮と翻訳されているギリシャ語のナオスは至聖所を指しています。クリスチャン、一人ひとりが神の聖霊の宿る神殿であり、また祭司としての立場が与えられているのです。

あなたがたは神の宮(ナオス)であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
(Ⅰコリント3:16)

主イエスが語られたことばもこのことを裏付けています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。                 (ヨハネの福音書4章23節)

キリストの者とされた人々は、いつでも、どこででも神に近づいて礼拝する特権が与えられているのです。

Ⅲ.いつくしみ深い方

「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」「いつくしみ深い方」は、口語訳、新共同訳では「恵み深い方」と訳されています。ペテロは、当時の教会を形成していたユダヤ人のクリスチャン、異邦人のクリスチャン両方に対して、「あなたがたは、主がどれほどいつくしみ(恵み)深い方であるかを味わっているのだから、ためらわないで、恐れないで、主のもとに来なさい。」と呼びかけています。「主のもとに来なさい」とは「日々、いつも、繰り返し、主のもとに来続けなさい。」という意味です。

主のいつくしみ深さ(恵み深さ)については、ペテロはだれよりも深くそれを味わっていたと思います。なぜなら、主イエスは最後の最後に自分を見捨てたペテロを決して見捨てずに、他の弟子たちを励まし、これから生まれてくる教会を導いていく大きな責任をお与えになったからです。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカの福音書22章32節)

日本語の聖書で「立ち直ったら」と訳されている箇所は英語の聖書では「わたしのところに戻ってきたとき」あるいは「もう一度向きを変えたとき」とも訳されています。ペテロは自分の努力で回復したわけではありませんし、時間が経過する中で自然にいやされたわけでもありません。いつくしみ深い(恵み深い)主イエスにもう一度目を向けて、主のもとに戻って行ったとき、主に近づいて行った時にいやされ、回復されたのです。

復活されて弟子たちの前に現れた主イエスは、ペテロに近づかれ「あなたはわたしを愛しますか。」と三度訪ねられました。「自信があるか?」「努力するか?」「ビジョンがあるか?」とは問われませんでした。ただ「わたしを愛しますか?」と問われたのです。それは、ペテロに託されていた働きは、主の恵みを知らなければ、そこに留まっていなければ、決して達成することのできない働きだったからです。

私たちは、自分に失望していないでしょうか?努力することに疲れていないでしょうか?忙しさの中で平安を失っていないでしょうか?もしそうであるならば、その時こそ、向きを変えて、いつくしみ深い主のもとに戻っていくチャンスだと思うのです。

2018年6月3日日曜日

わたしだ。恐れることはない。


夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
(ヨハネの福音書6章16節~21節)

Ⅰ.恐れ

人間を苦しめる問題の一つに恐れがあります。長い人生の中で、私たちは、時に恐れにかられるような困難な状況を通らされることがあります。恐れとは無縁だと言う人がいるかもしれませんが、心配というレベルで考えればどうでしょうか。何があっても、ぜんぜん心配しない人はいないと思います。

最近、強く印象に残る夢を見ました。その一場面で、にぎやかな町の光景が広がっていました。人々がお茶を飲んだり、食事をしたり、買い物をしたりと一見平和に見えるありふれた日常の光景でしたが、私がその光景を眺めている時に突然語りかける声がありました。「この人々一人ひとりの心の奥底には、恐れがあるんだよ。」と。その恐れとは、死に対する恐れです。とても不思議な夢でした。創造主との関係を失ったときから、人間は恐れを抱えて生きているようになったと聖書は教えています。恐れは人間にとって最大の問題の一つです。

Ⅱ.吹きまくる強風

さて、聖書にもどりますが、弟子たちが嵐の湖で経験した恐れも死の恐れでした。今まで穏やかだった天候が急変し、嵐に巻き込まれたのです。彼らが乗っていた船は、漁に使われた小舟であったと思います。自然の猛威の前には彼らはまったく無力でした。熟練した漁師たちもいましたが、弟子たちは、恐怖にかられパニックに陥ったに違いありません。

沈みそうな船の中で慌てふためいていた弟子たちは、さらに血の気を失うような光景を目にします。嵐の湖の上を歩いて近づいてくる人影があるのです。ところが、青ざめ我を失っている彼らの耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきました。「わたしだ。恐れることはない。」自体は一変します。他の福音書の記事では、波と風が静まり、弟子たちの恐怖が喜びに変わったことを伝えています。

Ⅲ.エゴー・エイミ

主イエスが語られたこのことば「わたしだ。」(わたしは~です)は、原語のギリシャ語でエゴー・エイミといい、ヨハネの福音書に24回登場します。ここでは詳細な説明は省きますが、旧約聖書でイスラエルの神ヤハウェがご自身を名乗られる時に使われた表現と同じです。すなわち、主イエスは「わたしがイスラエルの神ヤハウェである」と宣言しておられるのです。イエス・キリストは人間としてこの世界においでになりましたが、創造主としての力、自然界を支配する力を宿しておられました。その方が「わたしだ。恐れることはない。」と語られた時に、すべての状況が一変しました。

ヨハネの福音書は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という一節で始まります。キリストご自身が神のことばであり、キリストの語られたことばには私たちの理解を超える創造的な力があることを教えています。

出口の見えない困難な状況の中で心配し、恐れ、身動きの取れない私たちのところに、主イエスは来られ、「わたしだ。恐れることはない。」「心配しなくて大丈夫だよ。私がいるから。」と語りかけてくださいます。興味深いことですが、今日学んでいる箇所の並行記事(マタイ14:22、マルコ6:45)には次のように書かれています。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて・・・」主イエスはご自身がどのような方であるかを体験的に教えるために、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、強いて嵐の中を通過させたのです。私たちの救い主は、すべての状況をご存知であり、それがどんな状況であってもその中で私たちとともにいてくださるお方です。

Ⅳ.目的地

21節に、「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」とありますが、新改訳で「ほどなく」と訳されている箇所は、口語訳では「すぐ」、英語では「immediately」と訳されています。旅人であるなら、だれも嵐の中を通過したい、できるだけ遠回りをしたいと望む人はありません。願わくは、嵐を避けて旅をしたいと望みますし、目的地に早く付きたいと望みます。この記事の中で、弟子たちは嵐の中を通過して目的地に到着しますが、聖書のフォーカスは、嵐にも、目的地にも置かれていません。聖書のフォーカスは、すべてをご支配しておられるキリストに置かれています。主イエスがこの船旅を計画され、強いて弟子たちを船に乗せ、嵐の中を通過させ、弟子たちにご自身がどのような方であるかを示され、目的地に連れて行かれたのです。私たちにとって大切なのは、すべてをご支配され、愛と恵みに満ちたキリストが私たちと共におられるかどうか、それだけです。この真実な方は私たちを必ず目的地に連れて行ってくださるのです。

2018年5月27日日曜日

握りしめる生き方から手放す生き方へ


それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
(ルカの福音書19章1節~9節)

私たちは、何かを追い求めて、またいろいろなものを握りしめて生きています。でも、少し立ち止まって、何が私たちにとって本当に価値のあるものは何なのか、また何を求めて生きていくべきか、主イエスと一人の人物との出会いから考えてみたいと思います。

Ⅰ.取税人のかしらザアカイ

当時の取税人はローマ政府に収める税金を同胞のユダヤ人から取り立てるのが彼らの仕事でした。また、人々が収めるべき以上の金額を取り立ててピンはねする者たちもいたので、ユダヤ人社会の中では嫌われ者でした。

ザアカイがなぜそのような職業を選んだのかまでは書かれていません。しかし、職業の良し悪しは別として、ザアカイが、その道でトップに上り詰めるだけの優れた能力と野心を持った人物であったことが伺えます。ザアカイは、彼の望んでいた成功を手に入れましたが、そのために大きな代償を払いました。家族との関係や友人たちとの友情を犠牲にしなければ、この成功は得られなかったと思います。

Ⅱ.急いで降りて来なさい

そんな取税人のかしらザアカイに会うために、主イエスはエリコの町を訪れ、いちじく桑の木に登っている彼を見つけて声をかけられたのです。驚くことに主イエスはザアカイを知っておられ、彼の名を呼んで、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と声をかけられました。

主イエスの呼びかけに対するザアカイの答えも驚くものでした。あくどい商売で稼いた命よりも大切なお金を手放すと言うのです。主イエスは一言もそんなことをザアカイに求めてはおられません。主イエスが求めておられたのは、ザアカイの友となることでした。それを悟ったザアカイの心に一瞬にして大きな変化が起きたのです。

Ⅲ.きょう、救いがこの家に来ました

ザアカイがそれまで握りしめていたものがありました。人々に対する恨み(こいつらをいつか見返してやるというような動機があったかもしれません)、取税人のかしらとしての地位と権力、野心、そしていのちよりも大切なお金。誤解のないように言いますが、成功や地位やお金はそれ自体で悪いものではありません。むしろクリスチャンが社会の中で成功し、影響力のある立場に置かれ、経済的にも祝福されて、それを神の国のために豊かに使えるならば素晴らしいことだと思います。問題は、人間が地位や権力、野心やお金の奴隷になってしまうときに起こります。

ザアカイは主イエスと出会ったときに、この方との友情を手に入れるためであるならば、成功も地位もお金も、すべて惜しくないと思ったのです。それだけでなく、ザアカイは自分の生き方を変えたいと思いました。罪が示されたのです。ザアカイは次のように言います。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」簡単に言うならば、「イエスさまあなたとの友情を手に入れられるならばすべてを手放してもいいです。」それがザアカイの告白でした。ザアカイの真剣な告白に対して、主イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。」とお答えになられました。

Ⅳ.キリストのうちにある宝

イエス・キリストとの出会いには私たちの人生を180度変える力があります。イエス・キリストと出会い、生き方を変えられ(変えられ続け)、主イエスを友として歩んでいる人々、それがクリスチャンです。聖書はキリストのうちにある宝について教えています。その宝は、私たちが握りしめているどんなものよりもはるかに素晴らしい価値を持った宝です。キリストのうちにある宝とは、その深い赦しと豊かな恵み、私たちに向けられたいつまでも変わらない愛です。キリストはその宝「ご自身」を私たちに与えたいと願っておられるのです。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
(コロサイ人への手紙2章3節)

2018年5月20日日曜日

良い忠実なしもべ




天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
(マタイの福音書25章14節~29節)



Ⅰ.神の国(天の御国)


主イエスはしばしば神の国(天の御国)を主題にメッセージ語られました。主イエスの語られた福音の中心テーマは常に神の国であったと言っても過言ではありません。神の国を表すギリシャ語バシエイアの文字通りの意味は「(王の)支配」です。マタイの福音書のこのたとえで、主イエスは、お金持ちの主人とその主人から財産を託された三人のしもべの関係から神の国を教えています。


Ⅱ.タラントとは 


タラントは当時の通貨の単位ですが、1タラントが6000デナリ、1デナリが当時の平均的な日当と考えられるそうです。そうであるならば、単純に1日の日当を1万円で考えると、1タラントは6000万円、2タラントは1億2千万円、5タラントは3億円ということになります。主イエスはなぜ、当時の庶民の感覚からかけ離れたこのような金額を用いたのでしょうか。いくつか理由が考えられますが、ここから読み取れるのは一番目にこの主人が大金持ちであり非常に気前の良い太っ腹な方であること、二番目にしもべたちにゆだねられたものが巨額の富であったこと、三番目に自分のしもべたちを非常に信頼していたことです。


このたとえを私たちに当てはめて考えるなら、神の国に生きる者(神のしもべとされた者)一人ひとりに、王であるキリストが莫大な富を委ねられているということが理解する助けとなります。その富とは必ずしもお金だけを指してはいません。私たち一人ひとりに与えられた能力、才能、健康、時間、私たちに与えられているすべての物、突き詰めて言えば私たち自身、私たちのいのちが創造主である神から委ねられたものであると言うことができます。そのように、私たちには、すでにたくさんの富が与えられていることに気づくべきです。

Ⅲ.自分の財産を預け


聖書の視点から見るならば、私たちが所有しているものは何一つありません。すべては神様から預けられたものであり、それを有益な目的のために、賢く管理し、用いる責任が私たちに与えられているのです。私たちのいのちを含め、すべては神さまから預けられたものであるというのが主イエスの教えです。神の国に生きる者には、たくさんの富がゆだねられているのですが、その所有権を放棄して(キリストに所有権を明け渡して)生きることが求められているのです。でもその生き方が私たちの人生を豊かにします。「自分のいのちは自分のもの。自分の所有しているものは自分のもの。」という生き方と、「私のいのちは私を買い取ってくださったキリストのもの。私の持っているものは全て、王なるキリストから預かっているもの。」という生き方には雲泥の差があります。


Ⅳ.動機 


五タラントを預かったしもべと、二タラントを預かったしもべは、それぞれ預かった資産を使いリスクを犯して商売をし、自分たちの主人のために財産を増やします。ふたりは帰ってきた主人から大いに称賛されます。一方、一タラントを預かったしもべはそれを土の中に隠し、何もせずに主人が帰ってくるまで時間を無為に過ごしてしまいます。彼は主人の財産を盗んだわけでも、減らしたわけではなかったのですが、主人から厳しい叱責を受けます。主イエスは何にフォーカスを当てて語られたのでしょうか。主人は単に、資産が増えた、増えなかったという結果を評価しているのでしょうか。そうではなく、三人のしもべたちの動機を評価していると思うのです。資産を増やしたふたりのしもべの動機は、自分たちを信頼してくれた主人に喜んでもらいたいという願いから生まれたものでした。一方で、預かった資産を土の中に埋めたしもべは、自分のものにならないもののために働く気はなかったのだと思います。彼は、自分を信頼して資産を預けた主人の気持ちをまったく理解しなかったのです。「主人の喜びをともに喜んでくれ。」というのが、他のふたりに対する最大の賛辞でした。神の国の王であるキリストは、しもべである私たちと、働きをともにし、苦楽をともにし、最後にもたらされる成功をともに喜びたいのです。主人のこの願いを共有できなかったことが、一タラント預けられたしもべに致命的に欠けていたものでした。私たちは自分の人生をただ自分のために生きようとしているでしょうか?それとも、キリストから預かった人生を、神のために生きようとしているでしょうか?その動機が問われています。


Ⅴ.主人の帰還


25章には、主イエスが語られた三つのたとえが登場します。最初に、「十人のおとめ」のたとえ、次にこの「タラント」のたとえ、最後に「羊と山羊」のたとえです。どれもこの世界の終末とキリストの再臨について教えています。このタラントのたとえで語られているように、主人はやがて帰ってこられるのです。その時に私たちの人生が評価され、私たちの動機、私たちのしてきたことすべてが精算されます。また、この世界の終わりを待つまでもなく、わたしたちの人生にも終止符が打たれる時が必ず来ます。すべての人間にとって一番大切なことは、私たちをお造りになられた創造主がおられること、その創造主が私たち愛し、私たちに、こころと身体、時間といのち、さまざまな物質的な恵みをタラントとしてすでに与えてくださっているのです。あなたはそれを土に埋めてしまうのでしょうか、自分だけのために使おうとするのでしょうか、それとも、愛情を込めてあなたをお作りになった神さまと、神の作品であるあなたの周囲にいる人々のためにそれを使いたいと願うのでしょうか。その選択があなたに与えられているのです。