イエス・キリストが私たちを救い、

神が私たちの父となり、恵みの中を生きる新しい人生が与えられます。

聖書のことばが私たちの人生の土台となり、

たとえ試練があっても、希望と喜びをもって生きる力が与えられます。

教会が私たちの家族となり、

人生を分かち合い、祈り合い、励まし合う仲間が与えられます。

聖霊が私たちをいやし、回復し、成長させ、

新しい人へと造り変え、神の尊い作品として生きるアイデンティティが与えられます。

キリストが私たちたちを世界に遣わします。

イエス・キリストにあるいやしと回復、和解と希望のメッセージを伝えるミッションが与えられます。

2019年8月11日日曜日

収穫の働き手


その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
(ルカの福音書10章1節~2節)

Ⅰ.収穫の働き手は神の畑に目を向ける

この地上に神の国をもたらし、神の国を広げること、弟子を育て神の国の働きをゆだねることが、主イエスに託されていたミッションでした。主イエスは常に、父の心を求め、父の心に従って歩まれました。主イエスが、失われた人を捜して救う時に、神の国に招き入れる時に、神の国は広がって行ったのです。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)

人間が創造主である神との関係を失って以来、天の父の目はこの世界とそこに住む人間に向けられています。罪によって壊れたこの世界ではありますが、父の目には収穫の畑として写っているのです。そこに住む私たち人間を愛する子どもとして、ご自身の関係の中に取り戻したいと願っておられるからです。その父の願いを受け止めて、ひとり子イエス・キリストはこの地上に来てくださいました。私たちを取り戻すために。

主イエスは、常に父の思いを受け止め、父の目を通してこの世界をご覧になっています。主は、収穫の働き手である私たちにも、私たちの住むこの世界とそこに住む人々に関心を向け、そこでいっしょに失われた人を捜してほしいと願っておられるのです。私たちは収穫の畑に目をむけているでしょうか?

Ⅱ.収穫の働き手は神の可能性に目を向ける

救い主の友となったザアカイを通してエリコの町の多くの罪人が救われ、たましいの渇きが癒されたサマリヤの女を通し彼女の町の多くの人々が救われ、悪霊から解放されたゲラサの男によってデカポリス全域に福音が伝えられました。彼らはみな、主イエスによって罪赦され神の国の市民となった人々です。このような人々によって神の国は広がって行ったのです。

主イエスは、人々の罪の深さや、弱さ、彼らのおかれていた絶望的な状況を充分ご存じでした。しかしあえてそのような人々を探し出して選び、友となり弟子とされたのです。それはこの人々の中に隠されていた神の可能性をご存じだったからです。神の国に招き入れられ、神のものとされるならば、神はこのような人々を造り変え収穫の働き手として素晴らしい方法で用いられることをご存じだったのです。

主イエスは、弱さをもった人々の中にある神の可能性に目を向けておられます。主は、収穫の働き手である私たちにも、周囲の人々の中に隠された神の可能性に目を向けてほしいと願っておられます。私たちは人間の弱さや困難な状況に目を向けているでしょうか?それともそこに隠された神の可能性に目を向けているでしょうか?

Ⅲ.収穫の働き手は神の畑に時間を投資する

主イエスは、持てる物すべてを、またご自身のいのちを神の畑に投資されました。私たちにとって最も貴重なものは自分自身いのちです。イエス・キリストの救いを通して神の国の市民権を得た私たちは、自分のいのちを生きているのではなく、神に与えられた新しいいのちを生きています。聖書はこの神の畑に自分のいのちを投資することこそが最も見返りの大きな投資であることを教えています。私たちに与えられているこの人生と言う時間には限りがあります。しかし、それがどれほど貴重なものであるか、私たちは十分気づいていないかもしれません。

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
(マタイの福音書13章44節)

その人が何を大切にしているかは、その人が何に時間を費やしているかで知ることができます。私たちは神の畑に隠された宝のあることに気づいているでしょうか?その宝を見出し掘り起こして手に入れるために時間を投資しているでしょうか?

Ⅳ.収穫の働き手は他の働き手とともに働く

主イエスは、地上で過ごした限られた時間の中で、ユダヤ人に対して御国の福音を伝えました。そして、天に帰られる前に、この福音を全世界に伝えるようにと弟子たちにお命じになりました。神のご計画の中にあって、主イエスは弟子たちを収穫の働き手として育て、彼らに神の国の働きをゆだねる必要があったのです。

神の畑は、まず、私たちのこころの中に、私たちの家庭(夫婦関係や親子関係)の中に、次に、教会の中に見つけなければならないものだと思います。なぜならそこが私たちにとって一番大切な畑であり、神の可能性が隠されているところだからです。私たちが自分の賜物を見失い、家庭や教会という畑が放置されて荒れ果てているとしたら、とても残念なことです。しかし、私たちが神の協力者となるならば、この畑は豊かな収穫を約束する畑に変わるのです。そして自分の立っている畑から目を上げて周囲を見渡すならば、果てしなく地平線まで続く収穫の畑が広がっているのです。

私たち一人一人が働き手となり、家庭と教会の中から働き手が起こされ、さらに地域社会の中から働き手が起こされてくるならば、そして手をつないでともに収穫のために働くことができるならば、なんと幸いなことでしょう。私たちは、神の国のために手を取り合ってともに働く収穫の働き手になろうとしているでしょうか?

2019年8月4日日曜日

増え広がる教会



.「あなた方は力を受けます」前回のメッセージの復習

人々を救うことのできる方は神お一人です。ここに登場する教会は、みことばに生き、神の家族として一つにされ、神の願いを自分たちの願いとして祈り、聖く恵み深い神を畏れ、奇跡がなされ、惜しみなく分かち合い、一人一人が真の礼拝者として生きる教会でした。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 (使徒の働き1章8節)

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒の働き2:42~47)

① 聖霊は教会に「みことばに生きる力」を与える
「彼らは使徒たちの教えを堅く守り・・・」-----助け主である聖霊はキリストのみことばに従って生きようとする弟子たちに、その力を与えてくださる方です。

② 聖霊は教会に「一つとなる力」を与える
「交わりをし、パンを裂き・・・」-----聖霊は私たちが夫婦として、家族として、教会として一つとなる力を与えてくださいます。

③ 聖霊は教会に「祈りの力」を与える
「祈りをしていた。」-----聖霊は祈りを通して私たちの心のフォーカスを神の御心にぴったりと重なるように導いてくださる方です。

④ 聖霊は教会に「神を知る力」を与える
「一同の心に恐れが生じ・・・」-----私たちの交わりの中に聖霊がおられるなら、私たちは父を見る(知る)ことができるのです。聖霊は私たちに父なる神と人格的に交わる(知る)力を与えてくださる方です。

⑤ 聖霊は教会を通して力あるわざをなされる
「多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。・・・」-----聖霊は今でも教会を通して、主イエスがなされたのと同じように、父のみこころに従って奇跡を起こされる方です。しかし、それ以上に大切なことは、私たちを父の願う姿に変えてくださる方であるということです。ただし、私たちが心からそれを求め従うなら・・・。

⑥ 聖霊は教会に「分かち合う力」を与える
「・・・いっさいの物を共有にしていた。」-----聖霊の交わりの中にあって、教会はすべてを共有し満ち足りていました。弟子たちは豊かに与え、豊かに受け取る者であったからです。

⑦ 聖霊は教会に「礼拝者として生きる力」を与える
「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」-----聖霊は私たちに礼拝者として生きる力を与えてくださいます。それは聖霊の力による変革です。

⑧ 聖霊は教会に「キリストの証人として生きる力」を与える
「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」-----上にあげた条件を備えた教会を通して、人々はキリストを知り、そしてキリストを通して父との交わり、神の家族との交わりの中に導き入れ、キリストの証人として生きるように変えられたのです。信じて従う者たちに聖霊はその力を現わしてくださるのです

Ⅱ.増え広がる教会

こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。                   (使徒の働き 9章31節 新改訳聖書)

※参照: 基礎が固まって発展し(新共同訳) どんどん増え広がっていきました。(リビングバイブル)

この箇所で教会と訳された言葉は単数で書かれています。地域に散らばった教会ではあったけれど、キリストのからだとして一つにつながれていたことを教えています。新改訳聖書では「信者の数がふえて行った。」となっていますが、原文には信者という言葉はありません。聖書のフォーカスは「一つの教会がどんどん増殖していった」ということに置かれています。英語の聖書のいくつかではmultiply という言葉が使われています。確かに数として増えて行ったのですが、どんなに増え広がっても教会は一つだったのです。

ちょうどイチゴがランナーという茎を地表に這わせることによって株を増やしていくのに似ています。一つ一つの株が独立しているようにみえてもランナーでつながっています。聖霊によって生まれた一世紀の教会はエルサレムから始まって、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てまで、爆発的に増え広がっていきました。でもその増殖はすぐれたリーダーたちの努力や計画によるものではなく、神のことばと聖霊の導きに従った普通の人々を通してなされた神の働きです。そういった意味で、この書は「使徒の働き」というよりは「聖霊の働き」と呼んだほうがふさわしいと思います。イチゴに増殖していく生命力(DNA)があるように、一世紀の教会に聖霊と言う生命力が宿っていたのです。その生命力が解放されさえすれば、教会は自然に増殖していくのです。なぜならそれが教会のDNAだからです。

9章31節に登場する教会は、(前回のメッセージで引用した)2章42節~47節に書かれている教会の成長した姿です。聖霊の生命力によって成長(増殖)した教会がどのような教会であったかもう一度、確認してみましょう。聖書の教える教会とは、聖霊の力によって①みことばに生き、②キリストにあって一つとされ、③神の御心を求めて祈り、④神がどのような方であるかを知り④聖霊が力を現わし⑤持てるものを豊かに分かち合い⑦日々、礼拝者として生き⑧生活を通してキリストを証しする人々の集まりです。それが教会であり、神の家族のあるべき姿です。実際の私たちはさまざまな面で未完成であり、欠点を抱えたものです。しかし、神のことばに従い、聖霊の導きに従って生きるならば、そこに聖霊の力(デュナミス)が解放されていくのです。聖霊には私たちをキリストにあって豊かに生かし、成長させ、増殖させる力があるのです。

2019年7月14日日曜日

あなたがたは力を受けます


しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」   
(使徒の働き1章8節)
 
教会が生まれたのは熱心に祈っていた120人の弟子たちの上に聖霊が注がれた時でした。主イエスが昇天される前に「あなたがたは力を受け、わたしの証人となる。」と語られた約束の成就の瞬間でもありました。今日は使徒の働きの中から聖霊の力についていっしょに分かち合いたいと思います。   
   
聖霊の力を、宣教の働きにともなうしるしと不思議(いやしなどの超自然的な働き)だけに限定して考えるのは、あるいはそこだけに強調点をおいて考えるのはバランスを欠いています。使徒の働きの2章からエルサレムに生まれた最初の教会(聖霊によって生まれ、聖霊によって建て上げられた教会)の特徴に目を向けそこから「聖霊の力」ついて考えたいと思います。
   
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒の働き2:42~47)

Ⅰ.聖霊は教会に「みことばに生きる力」を与える

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り・・・」-----主イエスの中心的な教えは、「神を愛し、人を愛し、キリストの弟子を作りなさい。」という命令に要約することができます。使徒たちの教えも同様です。エルサレムに生まれた最初の教会の弟子たちが使徒たちの教えを堅く守っていたというのは、彼らが、日々、神を愛し、人を愛し、生活を通してキリストを証し、周囲の人々を救いに導いていたということです。助け主である聖霊はキリストのみことばに従って生きようとする弟子たちに、その力を与えてくださる方です。聖霊は私たちが「従う」という選択をするときに、その決断(何よりも神を愛し、神が造られた人を赦し、愛し、仕え、キリストを証しするという決断)を実行する力を与えてくださるのです。従う決断する心に聖霊は力強く働いてくださるのです。

Ⅱ.聖霊は教会に「一つとなる力」を与える

「交わりをし、パンを裂き・・・」-----使徒の働きの2章に見られる教会はキリストにあって一つとされた教会、神の愛によって結ばれた神の家族でした。この教会に与えられた一致は、民主的な合意によって得られたものではありません。神の御心に従って生きる人々の間に自然に生まれた神の愛による一致です。聖霊は私たちが夫婦として、家族として、教会として一つとなる力を与えてくださいます。

一世紀の教会にとっても、現代の教会にとっても一番大きなチャレンジの一つが「一致すること」です。聖霊は一致を求める弟子たちの心に働いて、神の愛によって一つとしてくださるのです。聖霊が働かれるどうかは、私たちが心から一致を求めるかどうかの選択と決断にかかっています。

Ⅲ.聖霊は教会に「祈りの力」を与える

「祈りをしていた。」-----祈りとは神に語りかけることであると同時に、神の語りかけを聴くことでもあります。聖霊は祈りにおいても私たちを助けてくださる方です。父なる神が願っておられることと、私たちの願いが一致する時に、祈りは大きな力を発揮します。また主にある家族(教会)が神の願っておられることに同意して祈るならば、さらに大きな力が解き放たれます。聖霊は私たちの心の照準を神の御心にぴったりと重なるように導いてくださる方です。これも私たちの選択にかかっています。私たちは二つの異なる方向に同時に進むことはできません。からだは一つしかないからです。神の御心を選び取るためには、何か他のものを捨てなければならないかもしれません。しかし、そうする時に、私たちは神の最善を求め、知ることができるのです。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
(ローマ8:26)

Ⅳ.聖霊は教会に「神を知る力」を与える

「一同の心に恐れが生じ・・・」-----恐怖を連想させる「恐れ」ではなく、敬う意味を含んだ「畏れ」を使った方が適切ではないかと思います。ヘブル語では「恐れ」と「畏れ」を表わす語がありそれぞれ使い分けています。「心に恐れが生じ」とあるのは「怖くなった」と言うことではなく、神がどんなに聖い方であり、また恵み深い方であるかを知ったということです。主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われました。「父がどのように聖く、また赦しと愛に満ちた方か、私をみれば分かる。」と語られたのです。同様に私たちの交わりの中に聖霊がおられるなら、私たちは父を見る(知る)ことができるのです。

聖書が語る「知る」とは知的に理解することではありません。人格的に、体験的に「知る」ということです。創世記4章に「人(アダム)は、その妻エバを知った。」とありますが、それは夫婦として(人格的にも、肉体的にも)一つになったということです。聖霊は私たちに父なる神と人格的に交わる(知る)力を与えてくださるのです。

Ⅴ.聖霊は教会を通して力あるわざをなされる

「多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。・・・」-----主イエスがなされたのと同じように奇跡的に病気がいやされ、悪霊が追い出され、超自然的な啓示が与えられ、人間には説明のできない不思議なこと、奇跡が起こったということです。しかし、聖霊の力を奇跡だけに限定して、また強調して語るならば、偏った理解に陥り、他のもっと大切な部分を見落としてしまいます。聖書にこう書いてあったら皆さんはどう感じるでしょうか?

そして、彼らは使徒たちの教えをほどほどに守り、暇なときだけ交わりをし、パンを裂き、たまに祈っていた。当然、一同の心には何の変化もなかったのだが、それにもかかわらず、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはお互いに無関心で、気が向いたときに、わずかな物を共有にしていた。

Ⅵ.聖霊は教会に「分かち合う力」を与える

「・・・いっさいの物を共有にしていた。」-----この箇所に書かれているようなことはこの時代の限定的な出来事であったと思います。しかし、この箇所から、当時の教会が持てるものを惜しみなく分かち合っていた様子を伺うことができます。良く「教会にささげる」という言い方をしますが、ここで焦点が当てられているのは、すべての弟子たちが教会であって、その弟子たちが持てる物をお互いに分かち合っていた姿です。弟子たちが集めた献金を使徒たちの必要のために捧げていたとは書かれていません。(働き人を物質的な面で支えるという慣例はあっても、部分的なものであり、聖書はそこに主要な焦点を向けていません。)大切なのは、全ての弟子たちが与える者であり、すべての弟子たちが受け取る者であったという点です。共有するとはそういうことです。

Ⅶ.聖霊は教会に「礼拝者として生きる力」を与える

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」-----ここに登場する弟子たちは、日曜日だけ礼拝を守るため教会に集まっていたのではありません。「毎日礼拝していた」と言うよりは、いつも真の礼拝者として生きていたのです。これは主イエスがヨハネの福音書で語っておられることの成就として捉えることができます。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」    
(ヨハネ4:23~24)

2019年7月7日日曜日

世代と世代をつなぐ


聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。                    (申命記6:4~9)

私たちの子供たち、次の世代を担う若者たちの将来に神が何を計画されているか、それを知ることは大切です。私たちはモーセの両親、主イエスの両親のようにこの時代に生きる全ての世代に対する神のみ心を真剣に求めているでしょうか?次のステージに向かって次の世代とともに歩んでいくことは、大きな特権であり、大きな責任でもあります。神の計画が実現するために、この時代の全ての世代を神がどのようにつなげようとしているのか学んで行きましょう。

Ⅰ.あなたは傍観者ですか?それとも挑戦者ですか?

主イエスが十字架の上ですでに勝利されたことを敵はすでに知っています。敵が知りたがっているのは、あなたが単なる傍観者か、それとも挑戦者なのかということです。

歴史を通して、神の国が根を広げたところには、必ず挑戦者がいたのです。モーセの両親の生涯、主イエスの両親の生涯を通しても、そのことを考えさせられます。世界中どこでも、教会が建て上げられたところに行って、歴史を調べるならば、誰かの信仰の証が残されているはずです。「主イエスが十字架の上で成し遂げてくださったことのゆえに、ここにも勝利が与えられた。」という証です。

どんな犠牲を払っても、病気になっても、経済的な問題があっても、尊敬されなくても、あるいは拒絶され迫害されても、キリストのために立ち続けた人々の証があるのです。彼らがその働きの途中で命を落とすことがあっても、誰かがその信仰を引きついでいるのです。信仰の継承は神の目的が達成されるまで続きます。

あなたが本当の挑戦者であると敵が知ったなら、彼のたくらみや支配は砕け散ってしまいます。あなたは勝利を経験するのです。あなたは真の挑戦者でしょうか?それともただの傍観者でしょうか?

Ⅱ.主イエスの視線で人々を見ていますか?

子供たち(若者たちに、新しい人たちに)霊的な理解力があると信じていますか?次の世代に対する私たちの期待も、また、私たちが彼らをどこに導いていけるかも、「私たちが彼らをどう見ているか」によって左右されます。次の世代に関わる私たちにとって、大切な質問があります。主イエスの視点で彼らを見ているでしょうか?神の願っていることが彼らの人生に実現するカギは私たちが握っているのです。

◇デイル・カフマン師の証

私は息子の前にひざまずいて、自分のために祈ってくれるように頼みました。「君の前にいるのはとても高慢な人なんだ。君よりも自分の方がエライ(イエス様にとって重要な人間だ)と思ってしまうんだよ。でもそれは間違った考えだね。君がどんなに大切な存在か、イエス様はお父さんに教えてくれた。お父さんはイエス様のように考えたい。イエス様のように君を見たい。これから君といっしょに歩んでいきたいんだ。イエス様がお父さんを変えてくれるように祈ってくれるかい。」私は首を垂れ、自分の頭に手置くように息子に頼みました。目を閉じていたので見えませんでしたが、5歳の息子が近づいて、祈っているのが聞こえました。

「イエス様、ぼくはお父さんが大好きです。お父さんをあなたのように造り変えてくれますか。きっとそうしてくれると信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。」その瞬間に私の中に変化が起こったのです。主の前にへりくだった時に、主は私に近づいてくださったのです。子供たちの力をあなどってはいけません。

小さな子供たちと関わることは本当に楽しいことです。彼らは自然に喜びを分かち合い、いろんな方法で友達といっしょに楽しむことが得意です。子供たちの成長段階に応じて、創造的な方法で関わることは楽しいことです。聖書について、神について、いのちについて、子供たちは少しずつ真理を理解していきます。どのようにしたら神の言葉が子供たちの心に届くのか、それが大切です。単に子供たちに何かをさせることとは違います。子供たちに手をあげて、祈らせ、いろいろと何かさせることはできるかもしれません。でも、それが心に届いているでしょうか?

神さまがどのように人の心に触れてくださるか聖書を読むと、4つのカギがあることに気づかされます。その4つとは模範となること、関係を築くこと、神の声を聞くこと、励ますことです。

Ⅲ.神の声を聞いていますか?

もう一つ忘れてはならないものがあります。毎朝毎夜、主イエスが一番大切にされていたことです。それが人々の心に触れるカギであることを主イエスはご存じでした。・・・祈りです。祈りを通して私たちが神に語りかけるだけでなく、神が私たちに語ってくださるのです。私たちの心で個人的に神の語りかけを聞くことができるのです。大人だけでなく、成熟した人だけでなく、神の子とされた人であるならば、年齢に関わらず全ての神の子に与えられた能力です。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」と主イエスは言われました。また、荒野でサタンの誘惑を受けた時には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と答えられました。神の個人的な語りかけを聞くことは、神との関係の一番大切な部分であり、人生を通して、私たちに神の計画が実現するうえで、本質的に大切なことです。しかしそこには、危険性がともなうこともあります。神の声を聞き分け、神の声を聞くライフスタイルを身につけることには、痛みが伴います。神の方法を理解しないで自分の判断と力で何かをなそうとすることには代償がともないます。

Ⅳ.心に届いていますか?

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 (マタイ28:18~20)

私たちが避けるべきことがあります。まず、私たちは宗教的になってはいけません。子供たち(若者たち、新しい人たち)を宗教儀式に参加させることが目的ではなく、ライフスタイルを身につけるように助けることが目的だからです。彼らにとっては、自然で現実的であることが大切です。押し付けることを避けなければなりません。心に届いていないことを押し付けて言わせようとしたり、やらせようとしたりすることは禁物です。操作し誘導して何かをさせようとすることも同じです。神との透明な関係、正直で純粋な関係を築くことを妨げてしまいます。

「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」(申命記6:6)モーセに十戒が与えられた場面での神の言葉です。一方で主イエスは、「わたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:20)と、語られました。これは心に届くように教えるということであって、単に頭で理解させるということではありません。

神はモーセに対して、「イスラエルの民がわたしの言葉を頭で理解しているだけでは不十分なのだよ。」と、語られているのです。神のことばが神の民の心に届かなければならないのです。モーセのチャレンジがどのようなものであったか想像できるでしょうか?モーセは、「この民がどんな民か、あなたは知らないのですか?協力的ではないんです!」と、訴えることもできたのです。

心について話しましたが、人間には自由意志が与えられています。他の人が誰かに何かを強いることはできません。その人自身が決めなければならないのです。「神さま、この人々が自分の意志で、あなたを愛し、心からあなたに従うように導くにはどうしたらよいでしょうか?」モーセはそのように祈ったのではないでしょうか。

幸いにもモーセは、自分の力で神の民を導こうとはしませんでした。もし、そうしていたなら失敗していたことでしょう。神が何かをしなさいと私たちに語られる時、神を待ち望むこと、神にたずねることが大切です。そうするならば、神は私たちに知恵を与え、道を示してくださいます。模範となり、関係を築き、ともに神の声を聞き、お互いを励ますことを通して、はじめて神の言葉は人々の心に届き、そこに留まるのです。

Ⅴ.いつどこで教えていますか?

申命記6章7節にこう書かれています。「これ(神の命令)をあなたの子供たちによく教え込みなさい。」では、子供たち(若者たちを、新しい人たち)をいつどこで教えるのでしょうか?「あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも・・・」と、あります。

キリストの弟子とされた私たちは、多くの民を弟子とする働きに招かれているのです。それは目の前にいる人々との関係から始まります。あなた自身の子供たちかもしれません。また新しく救われた人々、救われようとしている人々かもしれません。この人たちが模範となる人々との関係から学び、神の声を聞き、励ましを受け、考えること、語ること、すること全てにおいて神の心を喜ばせる人へと成長する姿を思い描くのは楽しいことです。

「心と思い、知性と力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という言葉を思い起こしませんか。罪から自由にされ、力と恵みを受け、主のために生きる子供たち(若者たち、大人たち)の姿を見ることは心躍らせます。次の世代を成長の過程に導き入れることは私たちに与えられた大きな特権です。

主はこの世界に影響を与え、神と共に前進するために全ての世代をつなぎ合わせてくださるのです。教会の全ての世代がともに働く姿は、なんとうるわしい光景でしょう。神の国の働きを進めて行くために、教会はすべての世代を必要としています。世代と世代をつなぐことの大切さについて学んできました。でも、そこには、カルチャーの違い、性格の違いなど様々なチャレンジがハードルとして横たわっています。世代と世代をつなごうとする時に、様々な難しさに直面し、意見が衝突することもあるでしょう。

しかし、聖霊が罪を持った私たち人間の内に住まわれ、私たちと関係を持とうとされる時の難しさを考えてみてください。救われた時だけでなく、日々の生活において、聖霊はすべての面で私たちと関わってくださっているのです。神が頑固な私たちと関わる方法を見つけてくださったのであれば、そこに私たちの望みがあると思うのです。聖霊は忍耐をもって私たちを導き、世代を超えて私たちを結び合わせ、私たちが神の家族としての関係を建て上げるのを助けてくださいます。私たちは聖霊のこの働きに目をとめ、それを理解しようとするだけでなく、「私たちを主と同じ姿に変えてください。」とお願いし、協力することができるのです。また、他の世代に手を差し伸ばし、お互い結び合わせてくださるようにと祈ることができます。私たちは、全ての世代の人々と心を交わして、神の恵みを分かち合うことができるようになるのです。

神の国の家族として集まることには、常にチャンレジが伴います。しかし、これこそが揺るぎのない神の国のライフスタイルにつながるカギです。私たちのコミュニティーを変革する流れが起こるのはそこからです。チャレンジがあっても不可能ではありません。私たちは、聖霊が世代と世代のつながりを通して働いておられると信じています。神はこの時代に生きる全ての世代にご計画を持っておられ、それを実現するために、私たちを一つにしてくださるのです。
※キングズ・キッズ創設者デイル・カフマン師のメッセージから

2019年6月16日日曜日

キリストの平和


今年のはじめに一人で祈る時間を持とうと思っていたのですが、大きなセミナーの準備などが続いて先延ばしになっていました。範子からの「行ける時に行ったほうがいいよ。」という促しもあって、月曜日から土曜日までクリスチャンのご夫妻が経営している車山高原の断食センターに行ってきました。とはいっても私は半断食のメニューを作っていただいて断食はしませんでした。一日二回、玄米と野菜メインのシンプルなメニューでしたが、オーガニックな食材で作られた料理はとても美味しかったです。 最初の二日間は雨が続いていましたが、木曜日、金曜日と天候に恵まれて自然豊かな高原で一人ハイキングをして祈りの時間を持ち、リフレッシュされました。                   

もちろん、皆さんのためにも、皆さんのご家庭のためにも、顔を思い浮かべながらお祈りしていました。痛みの中におられる方たち、病の中におられる方たちが懸命に戦っておられる姿を思って、どれも簡単に解決の与えられる問題ではありませんが、その中にあっても主からのなぐさめと励ましがあるようにと祈っていました。

◇信仰の戦いについて

今日はクリスチャンが置かれている信仰の(霊的な)戦いについて考えてみたいと思います。戦いの中に置かれている私たちにとって一番必要なものはなんでしょうか。必死に祈ることでしょうか?もちろん祈りは大切です。祈りなしにはこの戦いに勝利することはできません。では、神の敵である暗闇の力、霊的な存在と対決すことでしょうか?もちろんそのような場面もあるでしょう。でも、それよりも大切なことがあると聖書は教えています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」
(コロサイ3:15)

Ⅰ.キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい

霊的戦いについてこの聖句を引用するのは意外に思われるかもしれません。しかし、霊的な戦いにとって一番たいせつなのはキリストの平和の中にとどまること、また私たちのすべての領域(思い、ことば、態度、関係)をキリストの平和によって支配していただくことです。戦いの勝敗は、私たちが王であるキリストによってどれだけ支配されているか、それにかかっているといっても過言ではありません。キリストによる支配の度合いが問題なのです。

◇平和(平安)エイレーネー、シャロームの概念(以前のメッセージからの抜粋)

新約聖書ではギリシャ語のエイレーネーという言葉が「平安」「平和」と訳されていますが、旧約聖書の「シャローム」の持つ意味を背景に使われています。この「シャローム」はユダヤ人の間では、「平安がありますように」との意味で日常の挨拶に用いられている言葉ですが、平安以外にも、健やかであること、繁栄すること、安心できること、和解がもたらされること・・・と多様な意味を含んでいます。さらに「シャローム」は神がつくり与えるものであり、何も 損なわれていない100%満たされた状態をも表しています。

◇神のとの平和に生きる

大切な前提として神との平和はすでにキリストを通して信じる者に与えられています。キリストの平和が心を支配するとは、私たちと父である神との間になんのわだかまりも、妨げもないという状態です。そこにあるのは天の父と子とされた私たちとの親密な関係です。困難な状況の中でも神の良き姿を見ることのできる人は霊的に勝利しているのです。そこに敵の立ち入る余地はありません。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。                 (ローマ5:1)

私たちの思いとことば、態度、すべての領域をキリストの平和によって支配していただくなら、あとの戦いは楽になるはずです。実際、自分の所有権を放棄して聖霊に支配していただくことが、私たちにとって一番困難な戦いなのです。しかし、それさえできるなら、残りの部分は主が戦ってくださいます。それが聖書の教える霊的戦いの原則です。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。                    (ヤコブ4:7)

神に従うとは神に支配していただくということです。神は愛と恵みをもって私たちを治めてくださる方です。「神に従うこと」と「悪魔に立ち向かう」こととどちらがむずかしいでしょうか。ある意味、「神に従うこと」も戦いなのですが、こちらは私たちが無条件降伏しなければならない戦いです。神に無条件降伏した人が初めて悪魔に臆することなく立ち向かうことができるのです。不思議な言い方に聞こえるかもしれませんが、悪魔がもっとも恐れるのは神に全面降伏した人なのです。

◇神のことばに生きる

悪魔の最大の武器は偽りです。偽りによって、私たちが聞いた神のことばを歪め、私たちの心にある神の姿を歪めようとするのです。それが悪魔の常套手段です。「悪魔と戦って勝利しなければ平和は与えられない」というのも悪魔の偽りです。なぜなら私たちの王はすでに悪魔に勝利されているからです。そして、神の子とされたすべての者にすでに平和を与えてくださっているからです。問題は私たちがこの平和に支配されて生きているかどうかです。

「・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」               (ヨハネ16:33)

「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

ここでも、王であるキリストのご支配に自分を明け渡していくことが求められます。なぜなら、やろうと思えば、私たちはキリストに肝心な部分を明け渡さないまま祈ることもできるし、罪を離れないで「悪霊よ、出ていけ!」叫ぶこともできるからです。神に従わないで聖書を引用することさえ可能です。荒野でサタンが主イエスを誘惑したときのことを思い出してください。また、エデンの園においてはどうだったでしょうか。荒野では、サタンは聖書を引用して(歪曲して)イエスを試み、エデンの園では、蛇は神のことばを引用して(歪曲して)アダムとエバを誘惑しています。神のことばを知っているかどうかではなく、それに従っているかどうかが問われているのです。

Ⅱ.そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。

私たちは霊的な戦いをひとりで戦っているわけではありません。だれかがあなたのために祈っていると思います。また、あなたもだれかのために祈っていると思います。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」                           (マタイ18:20)

主イエスの名によって集まるとは、「主のご支配を認め、受け入れ、従う」ということです。神の主権を認めた人々が、心を合わせて同意して祈るところに、その関係を王であるキリストが治めてくださるのです。そこに神の国が生まれます。キリストの平和が支配するところに神の国があります。

私たちの戦いは神の国を広げる戦いです。戦いのもっとも激しいのは前線です。なぜならそこに二つの勢力のせめぎ合いがあるからです。皆さんの前線はどこにあるでしょうか?思いの中ですか?語ることばや態度でしょうか?あるいは身近な人々との関係にあるでしょうか?

問題の中で圧倒されてはいけません。神様は必ず祈りの仲間(家族や教会の仲間)を与えてくだいます。その人たちとともにイエスの名によって集まり祈る時に、神の国はそこにあり、確実に広がっているのです。

Ⅲ.感謝の心を持つ人になりなさい。

今回、一週間の祈りの時をもって、一番大変だったのはなんだと思いますか。思いを鎮めることです。いくつかの課題のために祈っていたのですが、どれも簡単に解決のつく問題ではありません。静まって祈ろうと思っても、ああでもないこうでもないと考え始めてしまうのです。考えることが別に悪いことではないし、決断するためには考える必要があります。ただ、考えることは下手をすると思い患いになってしまいます。

聖書は感謝の心を持つ人となりなさいと語りかけています。思い(こころ)を鎮めるかぎはそこにあると思います。注意深く目を向けてみると、困難に思えるその問題の中にも恵みがあることに気付かされます。まず、神の恵みがあることに気づかされ、自分自身が取り扱われていることに気づかされます。私たちは試練なしに忍耐を学ぶことはできません。複雑な状況の中で静まって祈ることなしには霊的な洞察を身につけることはできません。

最近大きな試練にあった友人家族のために、心配して祈っていました。そのことを彼らに伝えると、奥さんからこういう返事が来て驚きました。「ありがとうございます。私たちがこの試練を通して成長できるように祈ってください。」もちろん彼らは問題の解決も求めていましたが、試練を通して自分たちがよりキリストに似たものに変えられる機会であると考えていたのです。自分が同じ立場に置かれたらとてもそんな言葉は出てこないのではと思いました。

悲劇的なことや理不尽なことを無条件に、すべて受け入れなさいということではありません。もちろん受け入れてはならない問題、拒否したり対決したりしなければならない問題もたくさんあります。ただ、聖書はすべての状況の中で良き方である神に目を向けて感謝しなさいと教えています。

◇安息の中に生きる

霊的な戦いに勝利するために、キリストの平和によって支配していただくために、私たちが必ずしなければならないことがあります。それは、神を愛することと密接に関係しています。安息を持つことです。聖書の教える安息とはただ休むことではなく、今、やっていることを停止して、立ち止まり、心を王であるキリストに向け静まることです。忙しい私たちのライフスタイルに逆行するような命令です。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」        (出エジプト20:8) 

これは十戒の四番目であり、創造主である神との関係に直接関わる命令です。神との関係を第一にしてその関係の中で休みなさいという命令であって、「日曜日は教会の礼拝には必ず出席しなさい」ということではありません。(誤解していただきたくないのは、クリスチャンが神の家族としてともに集まることを聖書は強く勧めています。しかしそれは義務ではありません。)神との関係の中で休むときに私たちの傷ついた魂は癒やされ回復されます。

「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
(詩篇23:3)

「神との関係の中で十分に休み、たましいがいやされ、心から感謝し、神の家族とともにすべての恵みをよろこんで受け取る人は、信仰の(霊的)戦いに圧倒的に勝利する力が与えられる。」聖書はそう約束しています。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ8:37~39)

2019年6月9日日曜日

だれでもわたしについて来たいと思うなら


それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。                 
(マタイの福音書 16章 24〜27節 新改訳2017)

Ⅰ.ティーンチャレンジ

二泊三日で友人の木崎牧師が運営するティーンチャレンジを訪問しました。岡山市の中心部から、のどかな山里の景色を眺め車で30分ほど走った道路沿いの林の中に更生センターがあります。ここでは、さまざま依存症の問題を抱えた若者たちが、聖書の学びと農作業を中心とした回復プログラムを通して、新しい人生の出発地点に立つために一年間の学びと訓練の生活を送っています。

ティーンチャレンジのホームページにはこんな言葉があります。「麻薬やお酒を止めることに焦点を当てるのではなく、神と人のために生きることに集中する。やりがいのある仕事につき、愛する家族を守っているとき、人は依存症には戻れません。」

ティーンチャレンジは依存症の解決が聖書のことばに生き、神との親密な関係を築くことにあると考えています。依存症からの回復や社会復帰が彼らの考える最終的なゴールではありません。彼らが願っているのは、すべての人に福音を伝えることであり、そしてその福音を通して人々が造り変えられ神と人を愛する人生を生きるようになることです。確かに依存症を抱えた人々のためミニストリーではありますが、宣教と弟子作りがその働きの中心にあります。

Ⅱ.だれでもわたしについて来たいと思うなら・・・・わたしに従ってきなさい。

岡山に滞在中、何人かの若いティーンチャレンジのスタッフとお話しをする機会がありました。彼ら自身がかつて依存症に苦しみ人生に挫折した経験を持っています。ホームページで赤裸に証していますのでご覧になってください。卒業生の多くが自分たち同じ依存症で苦しむ人々の助けとなりたいという願いをもってこのミニストリーに関わっています。「わたしについて来たいか?」という主イエスの問いかけに「YES!」と応えた若者たちの姿がそこにあります。 http://www.teenchallengejapan.com/addiction.html

彼らの姿を見て、「自分はこの若者たちのように神様の招きに応え、神の働きのために人生をささげているだろうか?」と自問させられました。私たちの救い主は、恐怖で人を駆り立てることも、ご利益で人を誘うこともされません。なんの駆け引きもなくただ「わたしについて来たいか?」と問いかけておられるのです。その問いに「YES!」と答える人々に対して、主は「従って来なさい」と求められるのです。

Ⅲ.自分を捨て、自分の十字架を負って、

「自分を捨て、自分の十字架を負って・・・」とても厳しい投げかけです。キリストは私たちに「自分の人生の所有権を放棄して、わたしに明け渡しなさい」と求めておられるのです。

クリスチャンになるということは、もちろん罪赦され、神の子とされ、神の国の市民権を得、祝福の中を生きることを意味しています。しかし同時に、クリスチャンになって神の国に生きるとは、神の国の王であるキリストに自分の人生の所有権を明け渡して、しもべとして生きることを意味しています。

主イエスは、弟子たちに、「人生の所有権を握って自分のために生きるのか、それとも、それを放棄して自分を造られた方と他の人たちのために生きるのか」という選択を迫っているのです。

岡山で出会ったティーンチャレンジのスタッフにマユさんという二十代の若い女性がいました。両親の離婚から十代の時に不登校になり、非行に走り、アルコール依存症になり、リストカットと自殺未遂を繰り返す・・・そんな壮絶な人生からティーンチャレンジの在宅サポートで回復し、新しい人生を歩み始めた女性でした。マユさんは、同じような苦しみを抱えている女性のために何かをしたいと願いに駆り立てられて、岡山に移住し今ボランティアスタッフとしてティーンチャレンジの働きを助けています。

Ⅳ.キリストにある自由と喜び

自分の所有権をすすんで手放したいと思う人はだれもいないと思います。自由を失いたくないからです。しかし聖書は、自分の所有権を握りしめている人間が実は罪の奴隷であると教えています。

25節に、「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」とありますが、マタイの福音書では次のように書かれています。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイの福音書10章39節)

「人生の所有権を手放して、神に全面的に明け渡した時、はじめて私たちは本当の自由とそこにある喜びを手にすることができる。」聖書はそう教えています。岡山で出会った若者たちはその生きた証しです。

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネの福音書8章31節~32節)

2019年6月2日日曜日

成長させたのは神です


私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。"
(コリント人への手紙第一 3章6~9節)

参考:I planted, Apollos watered, but God gave the increase. (NKJ)

この手紙は、パウロが、さまざまな問題(分裂、不道徳、誤った教えなど)に苦しむコリントの教会に、「信仰によって一致するように」「キリストに立ち返るように」と書き送った手紙です。コリントの教会はパウロが開拓した教会の一つでした。

今日は、コリントの教会が抱えていた問題にではなく、パウロに与えられた植える者の働き、アポロに与えられた水を注ぐ者の働き、そして成長させる神の働きを聖書がどう教えているか、そこにフォーカスをあてていっしょに考えたいと思います。植える者、水を注ぐ者、成長(増加)させる神という三者の関係があります。

Ⅰ.植える者

使徒であるパウロは教会開拓者でした。何十年も一つの地域に定住し同じ教会にとどまって牧師として信徒たちを育てるということはしませんでした。パウロは開拓した教会を自分の育てた弟子や同労者に託して、生涯教会開拓の働きを続けます。なぜならそれが彼の召しだったからです。

ある場所で自分が植えた種が芽を出すのを見届けると、他の同労者にその世話を託して他の場所に移動する。そこでまた荒れた土地を開墾して畑を作り、そこに種を植える。そしてまた移動する。ときどき自分の開墾した畑の様子を見て回る。それが終生パウロのライフスタイルでした。

◆M牧師(植える者)

私の信仰のルーツは二世代前に遡るとM先生にたどり着きます。先生は根っからの教会開拓者(植える者)でした。先生が生涯の牧会生活の中で三十回以上引っ越しをされたと証しされていたのを思い出します。ちょうどパウロのように一つの教会を建て上げると弟子たちにそこを任せて新たな場所に移住してそこでまた教会開拓を始めるというのが先生のライフスタイルでした。新しい家に引っ越して、その窓から見える新しい景色を見てわくわくしたそうです。一方でご主人の働きを支え続けた奥さんはさぞかし大変だったと思います。永井先生が植えた種からたくさんの教会が生まれ、その一つで私のクリスチャンとしての歩みが始まりました。今から43年も前の事です。先生から見れば、私は霊的な孫になるわけです。

Ⅱ.水を注ぐ者

アポロもまた巡回伝道者でしたが、「水を注いだ」という記述から、パウロの開拓したコリントの教会に派遣された後、ある期間そこにとどまり牧者的、教師的な働きをしたと考えられます。

パウロとアポロの関係について聖書は詳細に記してはいませんが、パウロがアポロを信頼し同労者としてみなしていたことが伺えます。アポロと深く関わったのはパウロではなく彼が多くの時間をともにして働いたプリスキラとアクラという献身的な伝道者夫婦でした。パウロはこの二人に大きな信頼を寄せていました。

すでに伝道者として活動していたアポロの大きな可能性を見出し、また彼に何が不足しているかに気付いたこの夫婦はメンターとなってアポロを教え励まし育てます。つまりアポロの芽を出した種(召し)に水を注いだのです。アポロに関する記述を見ると彼が高度の学問を身につけた人であったことは容易に想像がつきます。そのアポロが一介の天幕職人夫婦のもとに身を寄せて、彼らから教えを受けたことが使徒の働きに記されていますが、そこから彼の謙虚な人柄を読み取ることができます。

やがてアポロは宣教師として送り出され、パウロが開拓したコリントの教会に赴任し、ある期間、そこで牧師として信徒たちを教え励まし育てます。アポロはパウロの植えた教会に水を注ぐ者となったのです。

◆小林繁樹牧師(水を注ぐ者)

「水を注ぐ」とはそのまま「弟子作り」であると言えます。5年前に昇天された私の古い友人小林繁樹先生は「水を注ぐ」ことにおいてその達人でした。長年ハワイの日本人教会で牧会された後、65歳で職を退き、神様の召しに答え、それ以来毎年サハリンを訪問し20年に渡って多くの弟子を育て、教会開拓を続けられました。サハリンという畑に福音の種を植え、そこから育った教会に水を注ぎ続けたのです。旧ソ連崩壊後の混乱の中で小林先生の働きを通して多くの若者たちが洗礼を受けてキリストの弟子となり、後にそこから60以上の教会が生まれました。小林先生は亡くなる数か月前までサハリンを訪問されていました。サハリンの多く牧師たちが今でも小林先生を自分たちの霊的なお父さんとして尊敬しています。私自身も先生から水を注がれた一人ですが、小林先生との交流を通して神様の召しに応えることの意味について教えられました。

Ⅲ.教会に与えられた二つの働き

私たちに当てはめて考えるなら、私たちは誰かによって植えられ、誰かによって水を注がれたので、教会として今ここに置かれていると言うことができます。すべての人がフルタイムの宣教師、あるいは牧師に召されているわけではありませんが、「すべての教会には『植える』という働き、『水を注ぐ』という働きが与えられている。」そう考える必要があると思うのです。

もし、この二つの働きを私たちが見失ってしまうならば、教会はいのちを失ってしまいます。この働きは少数の人だけにゆだねられた働きではなく、教会に属する私たちがみなで共有しなければならない働きであると思います。

◆市民農園での経験(教会という神の畑)

子どもたちがまだ小さかった時、自宅から歩いて10分ほど離れたところにある市民農園の土地を借りて野菜を育てたことがありました。土地と言っても二坪(畳4枚分)くらいの広さです。そこにナス、トマト、カボチャなど野菜の種や苗を植えました。最初は楽しくて子供たちを連れて毎日のように水やりや草むしりをしに畑を訪れていたのですが、そのうちだんだんと足が遠のくようになりました。どれほどたったでしょうか。何週間もほったらかしにした畑がさすがに気になって、恐る恐る見に行くと、一か所だけ子どもの背丈ほどもある草の生い茂った場所があるのです。ジャングルと化した我らの畑でした。もはやカオス状態。周りはキレイに実を実らせた野菜が整然と並んでいるので余計に目立ちます。近づいて見ると、なんとそんな状態になった畑に、不揃いでしたが野菜が実っていました。荒れた畑の中でかぼちゃも大きくなっていましたが、つるが周囲の畑に侵入していました。ほんとうに周りの方たちにははた迷惑だったと思います。野菜の生命力には驚かされましたが、放置するとこんな有様になってしまうのですね。

コリントの教会の様子を読んでいると雑草の生い茂った私たちの畑を思い出します。放っておいても野菜は育つと言っているのではありません。(教会と言う畑を考えた時に、管理しすぎる/お世話しすぎるのも考えものだと思いますが、)種が植えられた畑には水が注がれなければならないし、手入れがなされなければなりません。秩序を失い、分裂に苦しみ、誤った教えが入り込んで混乱していたコリントの教会ではありましたが、神のいのちが失われていたわけではなかったのです。種を植えることも、水を注ぎ手入れすることも大切です。でもいのちを生み出し、それを維持し、成長させることのできる方は神様しかおられません。

Ⅳ.成長させる神

聖書の原語ギリシャ語の時制では、「植えた」、「水を注いだ」は短い時間で完了した働きとして書かれ、「成長させる」は、継続的な働きとして書かれています。つまりパウロは、(神が始め、神が続け、神が完成しようとしている)神の働きを、自分や同労者アポロは、ある期間一時的に、また部分的にお手伝いをしたに過ぎない、そう言おうとしているのです。

もう一つ、「成長させた」は「増加させた」と訳すことも可能です。実際、「成長させたのは神です。」の部分を God gave the increase のように「増加させたのは神です。」と訳している英語訳聖書がいくつかあります。パウロは自分たちの働き「植える」「水を注ぐ」を農作業になぞらえて書いていますが、そこから考えると成長を個人的な成長としてとらえるだけでなく、主イエスのたとえでも強調されているように、数としての増加を含んでいると考える方が自然だと思います。

◆ミニチャーチ

一年ほど前から車で30分ほど離れた地域で主婦の方たちを中心としたミニチャーチを始めました。教会のメンバーのお一人Cさん(主婦の方)から「自宅を開放して伝道の働きのために使っていただければ・・・。」という申し出があったのがきっかけでした。たまたま近くに1年ほど前に救われた同年代の女性Mさんが住んでおられたので、Mさんを救いに導いたもう一人の女性HさんとホストとなってくださったこのCさん3人でミニチャーチを始めてはと提案したことが始まりでした。私たち夫婦も都合のつく時は参加していますが、徐々に自立させていく考えでいます。ミニチャーチがはじまってからこの三人の方たちはとても良い関係を築き、ともに祈り、積極的に伝道されるようになりました。最近ノンクリスチャンの友人がお一人参加された時に、救われて一年足らずのMさんが熱心にご自分の体験を証しされている姿が印象的でした。

植えられた種(このミニチャーチ)に水を注いでいるのは私たち夫婦だけではありません。ここに参加する三人の女性が人生を分かち合いながら、お互いに水を注ぎ合っているのです。

Ⅴ.神の同労者

「私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。」とありますが、初代教会のリーダーであった彼らもまた誰かによって植えられた種の実であり、水を注がれて育てられた存在でした。「水を注ぐ」は単に他の誰かに「福音の真理を教える」ということだけを意味しているわけではないと思います。「神の家族として、その人と時間を共有する。話しに耳を傾ける。ともに神のことばを分かち合う。その人の可能性(召しと賜物)に目をとめる。励まし手となる。ともに歩む。」そう多面的に捉えた方がより聖書のことばが伝えようとしている本質に近いような気がします。

クリスチャンである私たち(特に教会のリーダー)は神の畑である教会に種を植え、水を注ぐことを常に求められます。しかし、私たちもまた例外なく誰かに水を注いでもらわなければならない存在です。福音書を読む時に、主イエスが父なる神との交わりだけでなく、人間の友人たち(同労者)との交わりを求め、そこで慰めや励ましを受けておられた様子がうかがえます。それは私たちの救い主が人としてこの地上を歩まれたからです。そうであるならば弱さや欠点をもった私たちは、なおさらそのような関係を必要としているのではないでしょうか。私たちは神との関係、神の家族との関係、その両方の中で生かされており、養われ育てられているのです。

もし私たちが(私たちが始めた、私たちが続けている、私たちが完成しようとしている)私たちの働きをしているならば、神の同労者だと言うことができるでしょうか。そうであるならば、本当の意味での成長も増加も期待することはできないと思うのです。成長させる力、豊かな実を結ぶいのちはキリストのうちにしか見出すことはできないからです。

神の同労者とは、(神が始め、神が続け、神が完成しようとしている)神の働きに、植える者、水を注ぐ者として協力する人々のことです。「植える者、水を注ぐ者、成長させる神、この三つの関係が築かれる時に教会という畑は豊かに実を結ぶようになる。」、聖書はそう約束しています。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
(ヨハネの福音書15章5節